「苦難の意味」(エペソ2章6節) ( 6.30/2013 )
「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天のところにすわらせてくださいました。」(エペソ2章6節)

使徒パウロは主イエスに出会ったとき、苦しみとしか思えなかった人生がキリスト共に天上の座に就く、そんな日々に変わったと証言しています。

聖書が語ってくれる慰めのひとつは、復活された主イエスのお姿が十字架につけられたお姿であったということです(ガラテヤ3章1節)。このことを通してパウロは困難の中で生きる勇気を得たのです。

恐らく、平和な中で横になっているのが永遠のいのちの本質ではなく困難によって押しつぶされそうになり、それに耐えている心に本当の神との交わりと平安があることを彼は知ったのです。(苦難はあってはならないものという先入観が復活のキリストとの出会いを通して崩れたのです。)
困難に良いところなんてあるものか、というのがわたくしたちの知るところです。しかし、神が主イエスのために準備されたのは十字架でした。すなわち、十字架が与えられるとき、必ず十字架と共に神が準備してくださっているのが復活なのだとパウロは悟ったのではないでしょうか。

今まで十字架と思える苦しみはわたくしたちの人生から神の存在を消してきたかもしれません。しかし、パウロたちは恐らく苦難の中で神によって復活させられた主イエスを見、見続けようとしたのです。
すなわち、彼は後にこのように語っています。「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天のところにすわらせてくださいました。」(エペソ2章6節)すなわち、苦しみの中にあるということは、彼と「ともによみがえらせ」られたことであり天の座に座らせていただいているのだ、と。

天の座とは何でしょうか。シリアでは内戦のために自国民同士が傷つけあっている現状にあります。苦難の意味、原因それらを本来負いきれない指導者や隣人に帰するのでなく、苦しみの中にとどまりつつ神にその意味を問う必要があるのではないでしょうか。

神の解決方法は主イエスの十字架でした。傷つけられた無力な姿でパウロたちの前に復活のキリストとして現れたというのです。
神に受け入れられたのは律法による生涯ではなく、無力な信仰だけの生涯だったのだと彼は知ったのではないでしょうか。
苦難があっても神は決してあなたを捨てているわけではないのです。逆に「ここは天に座です。」と言ってくれているのです。わたくしたちを神の愛から引き離せる力は存在しません。(ローマ8章39節)

TOP