「生ける水の川をここに」(ヨハネ7章37節〜38節) ( 7.8/2013 )
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章38節)

今、体罰やしごきが社会問題となっています。隣人を立ち上がらせるとはどういうことなのか、指導者にそのような力量があるのか問われています。詩篇62篇11節〜12節には「力は神に属することを。主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。」と記してあります。オリンピック誘致問題で日本がPRしているのは、十分な経済力だそうです。しかし本来わたくしたちが持つべきものは温かい心なのではないでしょうか。

主イエスの生涯の中の特に大切であると言われている場面が今日お読みいただきましたヨハネ7章37〜38節です。ある宣教師は聖書を解き明かして、「キリストをあるべきところに認めないことが力のない原因です」と説教したそうです。すなわち、聖書にはキリストは神の右に座につかれたと記してあるのですが、全く信じていないゆえに聖霊は下ることができないのだと言うのです。(ヨハネ14章12節〜17節)
しかし、聖霊が下った後も聖霊の働きついて主イエスの言葉に耳を傾ける必要があると思うのです。

聖霊(御霊)は隣人を生かす泉に譬えられています。非常に勤勉で厳しい牧師がおられたのですが、その方の家庭での姿はお子さんたちに朝ごはんを作ってくれるお父さんだったそうです。主イエスが人々に証ししたかったことは自らが泉とされる生き方でした。隣人を生かすために用いられるのです。そして、それが聖霊のわざであることを思います時、光が見えてきます。今までの自己中心な生き方を捨てるなら神が聖霊を送って今まで知らなかった生き方をさせてくださるのです。

イエスを主と信じるとき、それまでは神(聖霊)に反逆してきた人間も聖霊を流しだすために用いられるようになるというのです。けれども、こんなに不安なことは他にないでしょう。しかしパウロの生涯を思います時、これが順境の時でなく逆境の中にあっても神が導いて下さった道であったことを思います時、逆境が悪いのではなく、逆境の中にあっても生ける水を流しだす使命に生きることこそが大切なのではないか、と思うのです。神は人間社会の栄枯盛衰ではなくご自身との交わりの深さを気にしておられるのではないでしょうか。

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