「主イエスの信仰」(ガラテヤ2章16節、3章11節) ( 7.14/2013 )
「これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2章16節)、
「『義人は信仰によって生きる』のだからです。」(3章11節)

先週は人を立ち上がらせる力は神との交わりにヒントがあるのではないかということを共に考えました。では、神の御顔を見る信仰とはどのような信仰なのでしょうか。ガラテヤ人への手紙には「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(2章16節)と記してあります。ある伝記には「神を完全に知っておられたキリストは、信仰の本質と神における確信を持たれたのであって、これは私共が初めに主にお頼りした時には、まだ私共には無かったところのものである。しかし、主のご計画は私共を導き進み、ついに啓示と経験によって、私共のたどたどしい信仰も、あの神を知っておられたキリストの中に所有された、キリストご自身の信仰そのものに取り替えて下さることである。」とあります。

では、キリストの信仰とはどのような信仰なのでしょうか。マルコによる福音書2章には律法を行えなくても信仰によって罪赦された方が登場します。この男は聞いたことを信じる信仰によって神と交わることができる人生に導き入れられました。そして社会的な生活にも帰って行ったと記されています。主イエスの信仰とは神の義が人々に生きる力を与える信仰でした。

では、わたくしたちの生活の中にこの主イエスの信仰を受け取るとどうなるのでしょうか。マタイ6章そしてルカ11章には主イエスが教えた祈りが記されています。そこには「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」と記されています。これは、元々私共が持ち合わせていたものではなくて神が主イエスに与えられた信仰であり、更に日々わたくしたちに与えられようとしている主イエスからの信仰なのです。

マタイ18章21節〜35節には100デナリを赦せない家来の話が出てきます。彼は律法によって人を裁くことを止めるために大切なステップを忘れていました。主イエスのように日ごとにこのことのために祈り、彼の大きな心を内に宿しましょう。

TOP