「神の国はいつ来るのですか」(ルカ17章20節、21節) ( 7.29/2013 )
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)

今、町では人と人を結びつけるために様々なスポーツ教室や文化教室が開かれています。先日町のボーリング場で4才くらいの女の子がレーンの中央に座り込んで大人の助けを得てボールを転がしていました。ボーリングの球は持てなくても転がして遊べるのです。
マタイ、マルコ、ルカと三つの共観福音書には「神の国」という言葉が何度も出てきます(ヨハネにも数回出てきます)。神の支配の及ぶところというのが「神の国」の大意です。

本日中心聖句に選ばせて頂きましたルカ17章21節まで神の国がどのように表現されているのか、使われている箇所を列記してみました。
4章43節 神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。
6章20節 神の国はあなたがたのものですから。
7章28節 神の国で一番小さい者でも
8章1節 神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら
8章10節 神の国の奥義
9章2節 神の国を宣べ伝え、病気を直すために
9章11節 神の国について語り、治療の必要な人々をいやして
9章27節 神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たち
9章60節 神の国を言い広めなさい。
9章62節 神の国にふさわしくありません。
10章9節 神の国が、あなたがたに近づいた。
10章11節 神の国が近づいた
11章20節 神の国はあなたがたに来ているのです。
13章18節 神の国は、何に似ているでしょう。
13章20節 神の国を何に比べましょう。
13章28節 神の国に・・・・はいっているのに
13章29節 神の国で食卓に着きます。
14章15節 神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。
16章16節 神の国の福音は宣べ伝えられ、
17章20節 神の国はいつ来るのか
17章20節 神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17章21節 神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

次に背景を確認してみました。
4章は病人の側、そして悪霊に憑かれている人の側で、6章も病気や汚れた霊に悩まされている人々に、そして貧しい弟子たちに、7章では群衆に、8章町々村々、そして弟子たちに、9章ついてきた群衆に、弟子たちに、従いたいと申し出た人に、10章すべての町や村で、11章悪霊払いの場面で、13章18年間病気に苦しんだ女と安息日に癒されることに反対した人々に対して、そして悪事を働く人たちに、14章宴会の席にたとえて、16章欲深いパリサイ人の前で、17章神の国がいつ来るのかと尋ねるパリサイ人に対して。

一番難しい問題は6章20節です。「貧しい人たちは幸いだ」と記されています。しかし、14章の12節から14節には返礼のできない人と共に生きる姿が描かれています。
お寺でも勉強会に会費があり、教会へ行っても礼拝献金が有りということで、貧しくても幸いを体験できるところは無いのでしょうか?
茨城県には献金箱が置いてあるだけで回って来ない教会があるそうです。カトリック教会は何百年も前からそうなのかもしれません。ささげることができる人は箱が回ってきても来なくてもささげることができるのではないかと思います。これからこの教会もみんなでこれまでの伝統と聖書を照らし合わせ改善しても良いのではないかと思います。

「ただ中に」とは、富める人と貧しい人が混在するこの町や教会の中であり、強い人と弱い人が共に住む家庭の中という意味です。返礼のできない人も忌憚無く出席できる教会を目指し、「神の国はいつ来るのか?」と地域の方に問われた時に、「神の国は手の届く範囲に来ています」と答え、わたくしたちの教会も主イエスが教えて下さった教会に向かって変わっていきましょう。「ここに、あそこに」ではなく、自分の手の届く所に神の愛を届けましょう。神の国は今自分の手で届けるのです。

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