「許して生きる」(ルカ15章11節〜32節) ( 8.4/2013 )
「楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」(ルカ15章32節)

聖書にはアダムとエバの子であるカインが弟アベルを殺した記事が記されています。主イエスは心の中で人を殺すなら同様に罪であると教えています。先月もわたくしたちが生活しているこの日本の国で様々な事件が起こりました。心をきよく保つということはすべての人の課題だと思います。

主イエスのたとえ話に放蕩息子のたとえ話があります。父の遺産の分与を受けて放蕩に身を持ち崩す弟息子を父親は愛をもって迎え入れるのですが、兄はそのことに立腹して父親に初めて反抗するというストーリーになっています。この中で注目に値するのは父親が弟息子について語った言葉です。すなわち、「死んでいたのによみがえった」です。そしてこの言葉を聞いても兄は父の赦す気持ちが納得できないのです。そして暗に、なぜあなたも納得できないのですか、と聴衆に問うているのです。

そして、納得できない兄やわたくしたちに突きつけられるのは、あなた自身が本当は失われた存在なのではないかという問題提起です。本日は弟息子を愛をもって受け入れるような神は信じられないし、そんな神と共に歩むこともできないし、父親とは違う価値観で生きていこうとしてるのではないかという問題について考えてみたいのです。父親の無条件の受容という愛が納得できないということは、すなわち父のそばで生活していても父とは違う価値観で生きており、主イエスはその人のことを死んだ状態にあるというのです。よみがえったのは弟息子だけで、兄はまだ死んだ状態なのです。
しかし日常生活を兄は普通におくれています。ですからここには深い問いかけがあるのです。

本当の意味で「生きる」とはどういう意味なのでしょうか。それは弟を赦す生き方を指しています。罪人が神に赦されること、そして生かされることに同意し神と共に喜び祝うことが当然のこととされています。ですから隣人を赦せない生き方と決別してよいのではないでしょうか。今までのわたくしたちの生き方に神の赦しを受け入れることが「よみがえること」なのだと主イエスは教えています。私たちの今までの価値観は地上で受ける愛の多寡に平等を求めてきたかもしれません。しかし主イエスがここで提起してくださっているのは受ける愛は平等に感じられなくても、注ぐ側の愛は自らの意思でいくらでも豊かにできるということです。すなわち、よみがえりの命は私共の意思に委ねられています。弟を赦さないで死んだ状態で生涯を終えるのか、それとも弟を赦してよみがえりの命に溢れて生活するのかを今選択しようではありませんか。隣人の弱点を指摘し自分の正しさを主張できるのがよみがえりの姿なのではなく、隣人の弱さやかけを受け止め、赦す中によみがえりの命は存在するのです。現実の痛みの中で互いに励まし合いつつよみがえりの命を味わい喜びましょう。

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