「信仰は家の中で」(マルコ5章1節〜20節) ( 8.11/2013 )
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(19節)

これは、マルコが福音書に残した主イエスの言葉です。ユダヤ教との違いをここに現したのではないかと思うのです。すなわち、文字の救いから心の救いへと変わったのです。

初代のキリスト教会は異邦人と言われるユダヤ人以外の人々からの改宗者にユダヤ教と違う救いを伝えました。すなわち「キリストが私たちの罪のために死んだこと、そしてよみがえられたこと」を伝えました。
しかし割礼を否定した結果(クリスチャンは汚れた者とされ)シナゴグと呼ばれる礼拝堂に入れなくなり、結果として礼拝する場所と祭儀の理由を失ってしまいました。使徒行伝には割礼と食物既定についての会議の様子、すなわちキリスト教会の成立過程の一部が記されています。そしてパウロは割礼に変えて洗礼を、食物既定や祭儀に代えてキリストの贖罪死とキリストの復活を伝えました。

マジックには見えないところに種があると聞きますが、キリスト教の種は隠されていません。すなわち、目の前に流される動物の血の祭儀を捨ててイザヤ書53章に出てくる救い主の姿をイエスに重ねました。すなわち何を捨てたのかと言いますと自らの力で犠牲を準備して救いを買い取るという救いの道を捨てて、神が準備してくださった救いの方法として主イエスを受け入れました。ところが人は映画を見て感動したから自らの生き方を変えることができるかと言いますと難しいところがありますが、それと同様に神の救いの方法を知って受容はできますが納得できるかとなると別の次元の問題なのです。これを聖書は霊の問題と言っています。

パウロの活躍を知っていたであろうマルコはこの霊に関してその福音書を通して再三取り上げています。恐らく洗礼は受けたけれども日常生活は受洗前とちっとも変っていない。天国行きの無期限パスポートはもらったけれども何にもその他は変わっていないということが起こっていたのではないでしょうか。ゆえにキリストによる贖罪という救いの方法を聞いただけで別世界に移されるくらいの衝撃があるのですが彼は更に主イエスの歩まれた道を振り返りつつ生活の中での霊の問題の存在を取り上げています。

聖書には「幼子のようにならなければ」(マルコ10:15)というくだりがあります。恐らく歳を重ねるごとに神への信仰から遠ざかる姿をマルコは見、主イエスの癒しを受ける人々に幼子のような信仰があったことを思い出して、彼にはこれが霊の問題に思えたのです。ですから主イエスを信じるということは霊が悪のとりこになっているままの義を指すのではなく種となっている自分の霊を神に信頼する所に戻すことに他ならないと伝えたかったのでは、それを家庭で取組むようにと勧めているのではないでしょうか。

TOP