「神の恵みは今からとこしえに向かって」(マタイ20章1〜16節) ( 8.18/2013 )

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(16節)

人が神から受け取る人生、苦難の長さや喜びの質等は様々です。その理由を捜しつつ聖書を学ばせていただきまして本日はマタイ20章1〜16節を取り上げさせていただきました。
苦難の意味を捜したのですが、マルクスは「能力に応じて働き、必要に応じて受ける」社会を提唱しました。ここで、能力と病気の関係は?等々考えてみたいと思うのです。このブドウ園の譬え話も一見苦難の意味どころか苦難の無い者にまで神の恵みは及ぶと教えているように見え、解決がないように感じていました。しかし大分市の岡山牧師の説教の中にはその答えがありました。すなわち苦労を負ってきた方々も慰めを得られるそんな内容でした。

まず、譬え話の内容は多く働いた者も少ししか働かなかった者も同じ賃金を得たというものです。譬え話が伝えようとしているのは雇主の寛大さです。しかし人間は罪深く「神が寛大だから」ではなかなか納得できません。しかしマタイはしっかり解釈をして理解を助けてくれているのです。それは「後の者は先になり、先の者は後になる」(16節)という教訓です。つまり、表面上は雇われた時期が後の者も慰めを受けるという意味ですが、「あと」を報酬を受けた順番と考えますと、後に報酬を受けた者とは長く働いた者であり、人生において多くの苦難を負わされた者が先になるという意味になります。

この先生は献身時、そして神学校在学中も大変ご苦労され、更に牧師になってからもご夫妻で十数年間働きながら伝道され、その生活は大変であったとおっしゃっていました。さらに教会が自立したのち再度自ら取り次いだ説教に応答してアブラハムのように新しい任地で伝道されています。「もう二度とあんな苦労はしたくない」とおっしゃるのですがご自身の著書の中で「辛いと思われる労働の中にこそ、神様の恵みがいっぱいあったことを思い起こして数え上げてみましょう。」と勧めて下さっています。苦難を生涯負い続けるのでなく振り返ることのできる日も神は準備してくださっていることを知り勇気を頂きました。まさに、苦難を恵みに変えるもの、それが「後の者が先になり」です。苦難を体験する後の者の歩みに先になる要素が隠されているのです。
苦難が多く恵みが少なかったと感じておられる方、未来は神に任せ、これまで体験した苦難と現在負っている苦しみの中に体験しているかもしれない神の恵みを捜してみてはいかがでしょうか。それはやがて受ける慰めの先駆けなのではないでしょうか。

歴史を導かれる神の御意志は完全には理解できません。今負わされているわたくしたちの重荷の意味も今は分からないかもしれません。しかし最後に報酬が与えられる時には、きっと最大の価値がわかり、天の御国の1タラントを一番重く受け取れるのではないでしょうか。

TOP