「正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる神」(マタイ5章45節) ( 8.25/2013 )
「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(45節)

わたくしはこの言葉を聞いたとき、直感的に東北の方々と共に歩まなければならないと感じました。なぜかと言いますと、災害の原因はわかりませんが復興については神の関心は個々人の信仰であり正しく歩む人を必ず助けて下さるというのが持論でした。しかしこの考えは聖書の教えとは逆の思想だと分かったのです。すなわち正しく歩んでも雨が降る、時には神は必要以上に雨を降らせるとなると人を守ってくれるのは誰なのだろうと考えたのです。そこでたどり着いたのが神はどこで働いておられるか、という課題です。そして得た結論は、神は人を無視して働かれるのではなく人を用いて働かれるのだという小さな仮定にたどり着きました。すると災害に遭って孤独を感じている方がおられた場合、その責任は神にではなく人にあるのではないかと感じたのです。

次に悪い者のために雨を降らせてくださるという意味を考えますと、神は分け隔てなさらないということになります。しかし悪い人のそばにいますと恐らく何かしらの害を被るわけで人情としましてはなるべくそれを避けたいと感じるのではないでしょうか。
すなわち神の存在を信じ彼の心に同意しながら生活するのは、かなりハードルの高い問題ということです。恐らく何か特別な決断がなければ神の思いを是認できないのではないでしょうか。なぜならその時傷つくことは分かっているからです。何かヒントはないのでしょうか。

アッシジのフランチェスコの教えをまとめたものとして伝えられているイタリアの民話に「神の道化師」(トミー・デ・パオラ作)というお話があります。道化師ですので笑わせるのが仕事なのです。そしてその道化師とはキリスト教の修道士を指しています。修道士と聞いて特殊な職責を想像されるかもしれませんがそう遠い存在でもありません。なぜなら彼らは神が喜ばれるのは人々の心を明るくすることだという信念によって恥も飢えも甘受した人々だからです。そしてもしかすると悪人が雨を得るためには彼らくらいの覚悟がいることを教えているのかもしれません。けれども神の配剤は時に重すぎるかもしれません。ジョバンニも次第に体が衰え芸に失敗しののしられながら道化師を引退します。しかしジョバンニはイエス像を喜ばせようと最後に芸をします。そして金の玉を投げあげますがジョンバニはその下で死んでしまいます。けれどもイエス像は彼の投げた金の玉をしっかりと両手で抱いていたそうです。

また映画の「神の道化師」でフランチェスコはこう言いました。「皆なに苦悩を強いている、この私の傲慢を悔い改めなければいけない。ベルナルドよ、胸を足で踏みつけてくれ。」と。雨の冷たさを通して信仰ゆえの利己心の結果を皆に強いていることを痛感し詫びたのでしょう。神の雨をきっかけにして自分の正しさから脱皮して大切な隣人を得てみては如何でしょうか。

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