やみの中から光が照る(コリント人への第二の手紙4章1〜18節) ( 7.26/2010 )
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである。(6節)

コリント第二の手紙が書かれた紀元56年頃のパウロは食事規定(信仰義認)等の問題を巡って異教徒だけでなくイエス・キリストを信じる人々、すなわちコリントの教会の人々からも迫害されていたと思われます。3章で「霊は人を生かす」とパウロは語っていますが、一方「文字に仕える者」(3:6)といっているのは律法に立とうとしているクリスチャンのことであると思われます。彼はコリントの人々に霊に生かされている自分の証をしています。それは彼自身「すべての人の良心に自分を推薦する」と言えるほど確かに実感できる内面の変化でした。彼には、「迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」強さがありました。

一般的には迫害に会うこと自体、間違っていることを証明していると考えられます。けれどもパウロが遭った迫害は「恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし」た結果受けたものでした。彼はイエス・キリストの十字架を人々に伝えましたが、同時に多くの反対を受けました。しかしそれは彼にとっては過去において彼のとってきた行動そのものでした。すなわちイエス・キリストと出会った後に彼は悪巧み(嫉妬や高ぶり)や隠れたことを捨て去る力を受けました。

「わたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と、イエス・キリストと出会った彼は内なる人に確かな力を感じていました。

彼の内なる人はどのような状態であったのでしょうか。愛に満ちていたのでしょうか?落ち込んでいたのでしょうか。私は後者ではなかったかと思います。なぜなら、彼がよって立ったところは「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神だったからです。闇があります。けれども様々な苦しみの中でイエス様の死を感じ、やみの中に光を与えられ生きる力を受けたのではないでしょうか。光からやみになったのではなく、やみから光へ移され生かされるのです。

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