「彼にあって歩きなさい」(コロサイ2章6節) ( 9.2/2013 )
「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」(コロサイ2章6節)

まず、コロサイ人への手紙とは、紀元一世紀頃典型的であった自らを神聖化しつつある哲学・・・人は世界を構成する諸元素に従い、それに服さなければならないという考え(2章8節)に対して、世界について畏怖すべき神聖なものと解された世界としてではなく、ただ十字架につけられかつ復活した人としてのキリスト・イエスだけが宗教的義務を定める力を有すると主張しています。世界の争い事はこの方において初めて和解に到達し(1章20節)、この方のみが世界の破壊的な力に打ち勝つ(2章15節)と教えています。

先週は東北の地を訪れさせていただきました。以前、町の方々から先輩の牧師たちとの思い出を沢山聞かせていただいた土地であり、同時に、神のなさる酷と感じられるわざに口をつぐんで耐えておられるご遺族と交わりを頂いた土地で、大先輩のクリスチャンから「涙をもって種まく者は喜びの声を上げて帰ってくる」(詩篇126篇5節)という聖書の言葉を頂いて帰ってまいりました。
前任の牧師は長い闘病生活を送られました。しかし後任のわたくしは病を知らない牧師でありました。信徒さんにとっては到底受け入れられない牧師であり、恐らく神を信じる前の自分の姿を思い出させるための助けにしかならないわたくしだったのです。(その証拠は、「私は鬼ですから」と何度もおっしゃって下さった時、以前のわたくしは何の返事もできませんでした。先輩の牧師でしたら「私も毎日鬼のパンツはいてま〜す」くらいおっしゃって下さったのだと思うのですが、わたくしは何も言えませんでした。)現実とどう向き合うか、それが今日の課題です。

牧師だから心が綺麗なのではありません。特異な過去の体験が現在を清めるのでもありません。しかし悲しいことをそれを表現できないプレッシャーがあるように思います。それ以上に綺麗になったはずだと思い込んでいる面があります。これが現実と取り組んでいる人々の心を傷つけているのだと思います。心の交流が途絶えている所です。しかしここで聖書が言っているメッセージは、根本(汚いところ)は変わらないけれどもただ綺麗なお方を受け入れたに過ぎないということです。「彼にあって歩きなさい」とある通りです。奥義はキリストです。しかし、根本的なわたくしが変わったわけではなく、ただ彼を受け入れた時にだけ違った判断が出来るというだけです。主イエスを信じたから病気をしない体になれるのではありません。しかし、彼を信じ、彼に従った時にだけ新しい特別な生活ができるのです。世の権力に対して無力な体のまま神の思いを受け取って歩むのです。

弱い自分はそのままであったとしても、病を負ったままでも、神が良しとされる思いに導かれつつ生活し始めましょう。自分の弱さや愚かさに涙を流し続けつつ、それ以上に神が与えて下さる新しい喜びを受け取り、彼にあって歩きましょう。わたくしもそんな先輩クリスチャンに会って来ました。そして喜びを分けてもらってきたように感じております。自らについて、どん底まで行き着いた涙は必ず喜びに変えられるのではないでしょうか。それが神がおられるということではないでしょうか。彼に導かれてみようではありませんか。

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