「無力なことを認めたとき人生は出発できる」(ルカ18章1節〜14節) ( 9.8/2013 )
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」(1節)
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14節)

やもめは何とか働き口を探さなければならない境遇に置かれた方であったでしょうし、取税人は職業柄隣人との関係が難しかったかもしれません。しかし、どちらも神を知っている方々であると主イエスは紹介したかったのではないでしょうか。

何かを求めるために祈る姿が描かれていますが、祈らなければ生きていけない、そんな状況に置かれた時、祈る相手として神がいて下さると教えられたのではないでしょうか。祈って神との交わりを頂きましょう。

なぜなら、その結果が二つ示されています。第一に祈りによって道が開かれたということ、第二に神に義とされるということ、平たく言いますと神から褒められるということでしょうか。高額納税者でないのに、なぜ?と思われるかもしれませんが、神は問題だらけで誰にも話せないそんな声を聴き共に歩んでくださるのです。闇も神は光に変えてくださいます。祈りつつ神の声を聴きましょう。

社会的に、そして精神的に重荷を負った方について考えてみました。無理無理無力を強いられた方々(取税人は世襲制でした)も神によって人生が開かれていきました。ですから、無力を自覚し祈ってみましょう、と主イエスは言いたかったのではないでしょうか。私共も逆境に置かれても諦める代わりに神に祈り、そして神の助けを受けましょう。故吉田昌郎(まさお)所長は事故後「何度も死ぬかと思った」とおっしゃったそうです。けれども彼はあきらめませんでした。わたくしたちも、(もう終わり)と思えるときにもあきらめず祈り出しましょう。
無力なことを知っている人が祈れる人です。祈る人に神は神の命(聖霊)を与えてくれるのです。(ルカ11章参照)

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