「沈黙の先に歴史がある」(詩篇126篇5節) ( 9.22/2013 )
「涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。」(5節)

祈っても聞かれないのです・・・という苦しみがあると思います。遠藤周作の『沈黙』という小説にも祈っても聞かれない苦しみと神認識の変更が表現されています。

『沈黙』の最後は、社会的には信仰を捨てたかに見えた司祭の「そして、あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」という言葉で終わっています。苦しみ抜いた先(マタイ27章46節)、すなわち個人の理想の先に社会の評価を超えたわたくしたちと神との個人的な関係が始まるのでは・・・と問うているように思います。自分の主張を絶対化する生き方ではなく隣人を生かすための生き方も選択できるのです。それはイエスと同様に他人でなく自分自身が痛みを負う選択なのかもしれませんが。

そしてこの沈黙はまた理想を掲げるわたくしたちが目標を近くに置きすぎていたことを教えているのかもしれません。主イエスの目指した神の国が彼の十字架の場面では達成されなくても世界各地で数千年経った今現れているとするなら、わたくしたちの信仰ももっと遠くに目標を置いて、今を受け入れて良いのかもしれません。涙や悩み、苦しみはやがて訪れる喜びの刈り取りのさきがけだからです。ロドリゴの背教と彼の信徒への愛は小さな者を愛された主イエスを映しているのです。そして小さな者を愛する社会になった時、戦争が終わるのではないでしょうか。(種蒔き、とは注解書には一時的な飢えを覚悟することと解説されていました。)

TOP