「戦わないという心の変化」(マタイ16章24節) ( 9.29/2013 ) |
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 あるアニメに可愛らしい女の子が登場します。そして彼女の父はエイリアンバスター、彼女を迎えに江戸に来るのですが、彼女は江戸に来て自分が変わったことを父親に伝えます。それは自分を変えることができると思えるようになった、という内容でした。 自分に敵対する者を駆逐するそんな本能をもって生まれてくる一族、という設定に心惹かれる気がするのです。誰しも戦わないで負けることができるかというとなかなか難しい問題のように感じます。しかし、主イエスは「自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」とおっしゃっています。 キリスト教は人を赦さなければならないと言うなら無理、と思われるかもしれませんがキリスト教が伝えようとしている救いとはアニメの登場人物のように自分で自分を変えるというのとは違います。自分でできることは何の役にも立たないことを認めて、その代わりにイエスの十字架の出来事が自分の心をきよくするために神が受け入れてくださった唯一の方法であったと信じることを要求しています。是非一度、ご自分で信じてその真偽をお確かめ下さい。一方、アニメの登場人物は日本の武士道の仲間のために命を懸ける生き方に温かさを感じ力の使い道についての示唆を得、新しい道に進み始めています。確かに教育や武道は正しい道を示すことができると思います。しかし彼女の心に届いたのは恐らくアニメの主人公の愛です。 では、主イエスの十字架だけで解決するはずなのに「自分の十字架を負って」という言葉はなぜ必要だったのでしょうか。それはわたくしたちの信仰が未完成であり手の届く解決を握りしめているからかもしれません。矛盾なのか、不信仰なのかどちらかを選択せよと言われたら、不信仰を取ったほうが無難でありましょう。ゆえに、自分の十字架があると思っていたことを悔い改め、自分で担っていたものについてもキリストだけで十分なのだ、彼にしかできないのだと信じ始めてみてはいかがか、という問いかけと考えてみてはいかがでしょうか。きっと新しい光が与えられるでしょう。隣人のために心を注ぎ始めた少女は自分の「信念」を否定し始めていますし、聖書は自分の「力」を否定してキリストだけに信頼することを教えているように感じます。「わたしに従って来なさい」と言われる主イエスに従っているのはどちらなのでしょうか。神の前に降参しているのは後者のように感じるのです。船に例えますと、航路変更どころでなく座礁してしまい神の救助を待っている状態であることを認めることと言えます。基本的に人は神に信頼できるかできないか揺れ動く心を持っていると思います。不安は誰もがいだくでしょう。それが残ったままで神の救いの方法に信頼する、というのが「自分の十字架を負って」ではないでしょうか。 隣人との不和を死に至るものと捉え、神との関係に転嫁してイエスによる神の解決を示す(ローマ5章10節)、これがキリスト教なのかな、と感じますが本当に信じ始めたら平和が来るのではないでしょうか。 |
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