「いじめ問題」(使徒の働き2章24節) ( 10.13/2013 )
「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」(24節)

「バチッツ、バチッツ」先日、娘の手がわたくしの顔に何度も何度も振り下ろされました。隣の部屋から妻の「お父さんをいじめちゃだめよ。」という声が聞こえてきました。この声がかかった時、いじめられる時の悲しみとはこういうものなのか、と知ったのでした。

いじめの問題がなかなか解決しないことを受けて政府は教育長にかえて自治体の首長を教育界のトップに据える方向で進んでいます。力で教育を施す体質が教育に携わる先生方の世界にも及んでいることが認識されたということなのでしょうか。
教育界には教育長の下に教育委員会そして校長、教頭、学年主任等の序列があり、暗黙のうちに生徒の世界にも力による秩序を教えてしまったのではないかと思うのです。現場では何が変わらなければならないのでしょうか。ただ一つ、それは周りの認識なのではないかと思います。いじめられる側が弱者なのではなくいじめる側が未熟なのだという視点が必要だと思います。いじめられている方への悲壮な同情はいじめられている方の心を更にみじめにし、いじめている側の優越感をあおっていると思うのです。顔かたち、運動能力、協調性や学力、そして貧富の差や勇気等々どんな違いがあったとしても受け入れる力がなく怒りを静める能力に欠けた人が本当は弱者なのではないでしょうか。

(神は何をしている、神が無能だから俺が秩序を作っている)と思われる指導者もおられるでしょう。確かに計画すること努力すること協力すること等学ぶべき大切なことは沢山あります。しかし個人差があり神は無力な姿の主イエスに栄光を授けました。これがどんな制度改革にも勝って今悲しんでいる方々への神からの励ましであると思うのです。

「時代は変わり 陽は降り注ぐだろう 浪間ただよう 花びらの上にも」(河島英五「ほろ酔いで」より)
この歌の前の部分は「全てのものが やがて報われ、全てのものが いつか救われる」です。わたくしたちにも時代を変えることができる部分があるのではないでしょうか。
聖書を読みますと「きよい御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」(ローマ1章4節)と記されていますが彼のご生涯は地位もなく金もなく愛に溢れ十字架で終わりました。すなわち痛みを受け止める勇気が神の子たらしめるのではないでしょうか。死が証する有限な世界があり、朽ちることのない霊が証する人格があります。神に召された後に、愛を語れる生涯が必要なのかもしれません。

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