「イエスの声」(マルコ6章45節〜52節) ( 10.28/2013 )
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)

新約聖書には福音書が4つ収録されています。そしてそこにはイエスという方のご生涯が紹介されています。そしてその中に描かれている出来事は完全には一致していません。イエスが嵐に沈みそうな船に乗り込んで来てくださったのですが、今日お読みいただきましたマルコの記事は通り過ぎようとされるイエスの姿があります。彼は恐らく行く道を隔てている逆風に対峙するために来られたのです。

ここで明確にされていることはイエスが現れてくださった場所と彼の言葉です。場所とは死の危機の只中でした。そして彼らにかけてくださった言葉です。それは「しっかりしなさい。わたしだ。」でした。そして事態は好転します。人生はどこまで続くか分からない旅のようなものだと思いますが、絶望と涙の答えは希望と勇気でした。
そして記者であるマルコが伝えたかったのはもう一つ、「イエスは弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」という一言でした。神が居られないような気がする、という時も確かにあると思います。しかし神がいてくださらないと困るという時も訪れるでしょう。(主イエスは見守り続けてくださったんです)と言いたかったのではないでしょうか。

先日、ある新聞に父親と生き別れになってしまったお子さんの記事が載っていました。子どもにとって今はまだ父親に会えなくても父親はきっとそのお子さんを捜し続けていてくれていますし、父親は恐らく主イエスと同じメッセージを伝えたいのではないかと感じたのです。え〜っ、イエスなの父親なの、いったい伝えたいのは誰なの、と思われるかもしれません。ある女の子が数日前、家の前の階段にしょんぼりと座り込んでいました。この子の場合はおかあさんか、お友達を待っていたのでしょうか。神は誰を遣わされるか分かりません。けれども主イエスが知っていた神は、嵐の中に近づいて来て「しっかりしなさい、恐れなくてもいいんだよ」と言ってくださるというのです。

神は死も裁きも偏見も憎しみも不安も恐れも、そして怒さえりも主イエスの十字架で受け止めてくださいました。ある大手企業は下請け企業のために自分の取引先と仕入れ価格を公表し、グループ全体で生き残る道を見つけたそうです。神は嵐と共に幽霊のように救い主を送って下さり、「わたしだ」と言っておられ、イエスの治世が始まったことを宣言してくださっているように感じるのです。
しかしお互い励まし合って進みましょう。「そしてキリスト者は彼にみ言葉を語ってくれる他のキリスト者を必要としているのです」(ボンヘッファー)。近くに与えられている隣人も神の助けなのです。逆風が吹く時は愛する家族や友と共に神の賜物(逆風を治めていただく)を受け取るべき時なのではないでしょうか。

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