永遠へと続く今日(コリント人への第二の手紙5章1〜10節) ( 8.1/2010 )
この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。(4節)

「死んだらどうなるのだろう。」「死んでみないとわからない。」と多くの人々は考えておられると思います。

聖書によりますと、死後肉と霊に分かれて霊は神のもとに帰るという思想があります。けれども、これは旧約聖書にあった考え方ではなくヘレニズムの影響を受けて後、受け入れられた思想です。

聖書は明らかに死後の一時的で過ぎ去る霊の世界のことよりも、イエス・キリストが再び地上に来られてすべての被造物が回復される時に焦点があててあります。すなわち、イエス・キリストの再臨によって人間は完全な体を与えられて回復される時が来ます。その体は復活されたイエス様の手にくぎの跡があり、脇に槍で刺された跡があったように何かしら連続している面があり、同時に壁を通り抜けられたように連続していない面をもつ体です。

創世記の4章、また洪水後の10章にも力で人を治める人々が登場していますが現代も同じ考え方が私たちの生活にあります。パウロはうわべを誇る人々(12節)に自分の生活の仕方について証ししていますが(7節)、それは神のさばきの日に向かって歩む生活でした。すなわちパウロは現在着ている衣(体であり生活のすべて)を脱ごうとしていたのではありませんでした(4節)。それは現在着ている衣(体や生活)は脱げないものであると考えていたからではないでしょうか。10節には(後の日に)「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない。」とあります。

何が神のみこころを正確に教えるのでしょうか。それは御霊です(5節)。このお方によって「死ぬべきものがいのちにのまれる」と表現してあります。そしてこのお方は「保証」であるとあります。

イライラ、ガッカリなど危険信号やガタガタしていることに気づかされる時、保証であるお方の声を聞いてみましょう。このお方に信頼するならば解決が与えられるでしょう。
「死んだらすべてがチャラになる」のではありません。大切な一日を永遠のための一日として、神様に喜ばれる道を御霊に支えられ導かれて歩みましょう。

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