「福音とは荒野の声」(マルコ1章1節〜3節) ( 11.10/2013 )
「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(1節)

「イエスの元にゆきて隠れよ、悩み多き世より逃れて」と教会では歌われることがあります。世とは違う何かが教会にはあるのです。パウロというイエスのお弟子さんは自分がいじめていた人々の中に主イエスを見て、後に主イエスの弟子となりました。

使徒パウロが最も大事なこととして伝えた「福音」とは「イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り三日目によみがえったこと・・・」(1コリント15章3節〜8節)でした。しかしマルコは「福音のはじめ」をここに記してくれています。それはどこにでもあるようなただの「声」でした。

ある女性は夫と喧嘩した腹いせに内緒で夫の下着とお風呂の足ふきマットを一緒に洗濯したそうです。(しかし、それを聞いたとたんに娘さんがマットから飛び降りた姿を見て、夫に優しくしようと思ったそうです。)やりきれない思いがあったと思うのですが元の愛の姿に帰ったのです。

イエスは汚れてしまう、そんな感覚よりも隣人を愛し大切にした方でした。わたくしがキリスト教を信じたいと今でもそう願わされる理由は、力によってではなく迫害者されていた弱い人々を通して神がパウロに語ってくれたのだと感じるからです。以前わたくしも掟を守らない人を迫害した経験があります。しかし本当のクリスチャンとはパウロの姿から学ぶとするならば「どうしてわたしを迫害するのか」(使徒の働き22章7節)という声を聴いた人であり、痛みを受けることができるその歩みこそが救われた生涯(福音)であると気づいたからです。

負けること、ののしられることなど苦しいことは生活の中に沢山あると思います。しかし「声」のように弱い生涯であっても、その無名である小さな生き方を神は支えてくださり、ひとりの人を救ってくれるのです。生き方の中に「福音」、すなわち主イエスの生涯を受け入れさえしたら、結果はすべて神に委ねて良いのです。力でなく遠くの声で良いのです。神にしか語れないことがきっとあるのです。そして神の声には心を造り変えてくれる力があるのです。

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