「失望にあらがって」(マルコ16章6節〜7節) ( 11.17/2013 )
「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(16章6節)

わたくしたちの祈りは神に届いているのでしょうか。2017年のワールド・ベースボール・クラシック日本チームの監督に就任した小久保裕紀さんは理想の監督像にソフトバンクの王会長を挙げています。王会長の勝負から逃げない姿勢はどうやって培ったらよいのでしょうか。一人当たり約794万円の負債を国債として抱えている日本には難しい、と思い込まされている面があるように思うのです。
2011年3月に福島第一原発が爆発したときどれほど多くの方がチェルノブイリの現状をお調べになったことでしょう。そこには甲状腺がんの手術跡の残った女の子の動画もありました。統計上〜人と報道される患者さんは生涯首にスカーフを巻き続けなければならないのです。

明治大学の内藤朝雄准教授は「皆との同調が強く求められる環境の改善が無くしていじめはなくならないだろう」と言っておられます。これは数百年かそれ以上かかって培われたもので決して良いものではなく、歴史的には戦争の道具としても用いられてきました。しかしもし良い方向に用いることができたならば多くの人を助ける力としても用いられうるのではないでしょうか。今は経済や公務員の雇用などが重視されており、補償が不可能な命が軽んじられているように感じるのですが、もし全ての情報を国が国民に伝達し、命の尊さを認める働きを始めるなら全国民が一緒に良い方向に向かうことができると思うのです。

マルコによる福音書は、「あの方はよみがえられました。ここ(墓)にはおられません。」(16章6節)に向かって話が進んでいきます。これは紀元70年頃にシリアでマルコがこの福音書を書いたとき彼が明確に信じることができたメッセージです。この背景にはローマの百人隊長の「この方はまことに神の子であった」(15章39節)という言葉があり、対になっていると言われています。すなわち、紀元69年にウェスパシアヌスがローマ皇帝に即位し多くの民が彼の前にひざまずきました。しかし、マルコはそのローマ帝国の代表として百人隊長の信仰告白を記録しました。そして、更にそれを打ち消すように、すなわち当時の「福音」はローマ皇帝の即位や誕生や戦勝を意味する言葉でしたが、それに対抗する「福音」としてマルコ自身の生活の中に息づき、ガリラヤの人々の心の中に息づいておられる生きておられる主イエスを証ししたのではないでしょうか。

命はどこにあるのか、というのは難しい問題ですが、繰り返されていることは十字架の後であるということです(8章34節、13章9節〜13節)。手をこまねきながら祈っている多くの方もおられると思うのですが、もし、小さな権力の為にではなく身近な方のために十字架を負えたならば(8章34節〜35節、15章41節)、彼に神は主イエスのいのちの実在を教えて下さるのではないでしょうか。それはローマ帝国以上の力なのだと証しされているのではないでしょうか。どんな時に祈るのでしょうか。わたくしは疲れ、失望してしまった時、で良いのではないかと思います。神は生きておられ必ず慰めて下さいます。それが主イエスというお方をとおしてだったと証言しているのです。

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