「3回目のガリラヤ」(マルコ16章6節〜7節) ( 11.25/2013 )
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」。(16章7節)

マルコの福音書はその前半がガリラヤでの出来事であり、マルコがイエスの弟子であったペテロから聞いたことを忠実に記録してできたものであると言われています。ですから、主イエスご自身がガリラヤで歩まれたときが第一回目のガリラヤであるとするなら、第二回目のガリラヤとはマルコの福音書でありマルコが生き生きと描いた主イエスのご生涯のことです。そして第三回目のガリラヤとはわたくしたちの人生そのもののことです。

マルコの福音書には荒野の誘惑、中風の男の癒し、重い皮膚病の癒し、熱病の癒し、盲人の癒し等沢山の奇跡が記されておりますが、何かの代価を払って癒された人は一人もいません。彼らは治りたいと思っただけで無代価で新しい人生に入れられたのです。今もイエスとの出会いかたに変わりはありません。

わたくしたちの人生にも良くないと思っていながらも習慣的に続けてしまっていることはないでしょうか。すなわち、あきらめてしまっている病のようなものはないでしょうか。きよく生活したいけれども、きよく生活できず、良くないもので心の満足をごまかしてしまっているものはないでしょうか。聖書を通して知る主イエスは恵み深いお方です。レビという取税所に座っていた男の人生が変わった後、様々な重荷に苦しむ人々が主イエスに従うようになったことが記されています。
わたくしも以前は世の中の良くないと分かっているもので心をごまかす生き方をしていました。しかし、主イエスの救いが恵みによって与えられることを信じた時から不思議なように心が主イエスだけで満足しているのです。以前は立派な信仰を神が認めてくれた時に主イエスが何かを行ってくれると思っていました。しかし、立派な信仰も何もないのに、ただ主イエスが恵み深いお方であると信じただけで人生が変わりました。復活された主イエスは見えませんが彼は良いお方であり、憐みに満ちたお方であると今は感じております。

聖書は罪を問題にしている書物ですが罪に苦しんでおられる方がおられたら、主イエスを信じてみませんか。どのように信じるのかと言いますと、彼はとんでもなく恵み深いと信じて下さい。彼によって心満たされない人はいないと思えるくらい恵み深いお方です。ですから渇ききった心にただ主イエスを信じて下さい。そして、イエスに従った人々は主イエスと食事を共にしています。教会の交わりに加わってくださいますように心からお勧めいたします。教会は目には見えませんが復活されているイエスを中心にした共同体です。新しい人生はわたくしたちの努力の実ではなく、主イエスからの賜物です。
死んだお方の中に(力のない)イエスを捜してもどれだけ時間をかけても決して見つかりません。しかし、わたくしたちの人生の中に生きておられる主イエスを捜すならきっと見つかるでしょう。1章24節、34節、3章11節と4章41節、6章52節、8章21節以下は対照的であり痛烈な皮肉のようにも感じるのです。しかし少なくとも悪霊は主イエスを恐れるのですから若者たちが聖い生き方をするために主イエスの復活は特に朗報ではないでしょうか。3回目のガリラヤ(物語)はわたくしたちの人生そのものなのです。

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