「認められた人々」(ローマ5章18節) ( 12.9/2013 )
「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。」(ローマ5章18節)

日本における宗教の信者数は、文部科学省の宗教統計調査によると、神道系が約1億700万人、仏教系が約8900万人、キリスト教系が約300万人、その他約1000万人、合計2億900万人だそうです。(総人口は約1億2653万人)しかしそれぞれの宗教は時代によって信仰の様子が違うようです。例えば仏教も正法、像法、末法と時代によってそれぞれに教えが説かれ宗派が生まれたようです。キリスト教も元はユダヤ教でありユダヤ教からキリスト教が誕生する過程が記されているのが新約聖書です。

先週からイエス・キリストによる新世界ということで先週は神が善人も悪人も愛して下さっているという聖書の言葉(マタイ5章45節)をご紹介しましたが、今週はユダヤ教から決別してキリスト教が生まれた時代に活躍した使徒パウロもまた当時ユダヤ教に近い考え方を持った方々から命を狙われたり、治安を乱す危険人物としてローマ帝国の第4代皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)からも異端視されていました(使徒の働き17章7節)。その彼の人生の中心あったのが復活されたイエス・キリストとの出会いでした。日本で生活しているわたくしたちのためにヒントを捜してみたいと思います。

第一に感じることは異端視されることの恐れを払しょくしたのはパウロであったということです。律法に依らない救い、すなわち、律法が人間の罪故にその本来の機能の転倒をみているその時代に彼は神によみがえらされた主イエスと出会ったことを通して、無の状態に命を与えることができる神を彼は信じたのです。そして律法を守ることによってではなく命を与えることができる神を信じる信仰を救いと定義しました(ローマ10章9〜10節)。日本に生まれ育ったわたくしたちにもそれぞれ宗教的な背景がありますが、パウロが異端視されても恐れなかったのは律法では証し出来ない命を見たからでした。今知っておられる常識や掟で得られない命を神はイエスを通して証ししておられるのです。

第二に彼が異端視されたのは、ユダヤ人だけではなく全世界の人々の救いを神が望んでおられると宣伝したからです。その確信の根拠は彼が復活されたイエスに出会ったのは彼がキリスト教徒を迫害している最中の出来事だったからでした。故にユダヤ人だけではなく全世界の人々に、キリスト教徒だけでなく他の宗教的な背景を負っている人々にも神は好意を持っておられ信仰によって救いを与えようとしておられると証しできたのです。

第三に彼が異端視されたのは、元になったユダヤ教の規定を守らなかったからです。ユダヤ人たちが守りたかったのはきよさでした。神がきよいお方なのでわたくしたちもきよくならなければならないという羨望があります。しかし、きよさや正しい愛は手を洗うことや割礼や食物既定などの律法で得られるものではなく、霊による生活が必要です。これは恍惚状態のようなものではなく、理性をもって間違っていることが分かっている神々を捨て去って得られる霊です。パウロは良心がすべての人には与えられていると証言しています。間違った関係や欲望などきよい神に喜ばれないものを捨て去るとき、きよい神との交わりは深まります。わたくしたちに断ち切れないと思える問題を抱えておられる方がおられましたら、神が主イエスのゆえに義と認め宣言して下さる(ローマ5章18節)ことを信じて、間違った神々を捨てて新しい人生を始めて下さい。義と認めることは大人も子どもも信徒も牧師も関係なく、神だけが行うことができることがらです。どんな神を愛するかによって人生は変わると思うのです。ただその愛も神から出ていることは確実です。故に、神の前にへりくだるのです。

日本でクリスチャンという立場で生活することは異端視されること必定でしょう。しかし、愛すべき人々を愛するきよい生き方に異端扱いは無いと思います。ただ神は国籍を超えてわたくしたちを愛し、無に命を与え、反逆者を選び、きよい愛を一方的に与えて下さるのです。今日きよい神をこころに受け入れましょう。神がすでにきよいと言ってくださるのですから。

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