「謙遜になれる」(ガラテヤ2章15節〜21節) ( 12.15/2013 )
「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(16節)

イエス・キリストによる新時代(新世界)ということで先々週は分け隔てのない神の愛についてそして先週は義とされた人生についてお話しさせていただきました。今週は誇り高いパウロが謙遜になった出来事を通して謙虚になれるということについて考えてみたいと思います。先週ある学校で先生が訴えられたという記事を読みました。生徒指導に適切さに欠けた面があり生徒が病気になったためとのことでした。律法が目的地ではない証拠が現れてきているのではないでしょうか。

正しさと正しさがぶつかると戦争が起こります。日常生活では喧嘩が起こります。真面目に神を信じてきたパウロにとって偶像に仕えることは許されないことでした(2章15節)。しかし、そんなパウロが律法に熱心に生きることは世の中の偶像に仕えることと等しいことなのだ(ガラテヤ4章3節、30節)と知らされ、このことを伝えるために書いたのがガラテヤ人への手紙です。そして律法に勝るものがあったと証言しているのです。

それは律法によって罪に定められることを受容する生き方でした。罪に定められるなんてとんでもないと思っていたパウロが律法については違反者であることを自らについて認めました。聖書の言葉ですと、「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章19節〜20節)と言っています。十字架につけられた者であることを受け入れたときから彼は謙遜にされ隣人を裁く人生から救われました。そしてキリストに生きていただくことができるようになったのです。

「キリストに生きていただく」とは隔てのない愛だったのではないでしょうか。日本においては頭の良い人たちは悪い人が嫌いかもしれません。お金持ちはお金のない人が嫌いかもしれません。綺麗な人は綺麗に見えない人が嫌いかもしれません。しかしパウロは異邦人を愛するように変えられました。そのかぎは「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰」(ガラテヤ2章20節)だったと思うのです。
裁いたり捨てたり殺したりする神ではなく、神の御子がご自分を捨てて愛して下さっていることを信じて彼は新しい人生を見つけました。律法の証人のような顔ではなく、罪人であることを認め、救い主を信じ、救われた顔を神から受け取りイエス・キリストの愛と謙遜な生涯を証ししょう。

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