「苦しみも神と共に」(マルコ5章25節〜34節) ( 12.22/2013 )
「すこやかでいなさい。」(34節)

今日はクリスマスです。イエス・キリストの誕生をお祝いする礼拝が世界中で行われています。イエスという方は「信じる」ことの尊さを教えてくださったお方です。(神様は私に関心を持ってくれているのだろうか)と皆さんも一度はお考えになったことがあるのではないでしょうか。私も小学生の頃の担任の先生が授業中にかまってくれたことが人生の一つの転機になり前向きに生きれるようになりました。信仰と信仰の結果を考えてみたいと思います。

長年病気をわずらっていた女性が主イエスに捜しだされる場面が今日お読みいただきましたところに記されています。大勢の群衆がイエスに触れていたのに、たった一人の女性をイエスは捜しだされたというのです。

そしてこの女性に何をお教えになったのかといいますと、「信仰」でした。「あなたの信仰があなたを救った」ということを伝えるために捜し出されたのです。イエスはどうして彼女を捜し出されたのでしょうか。普通に読みますと「信仰をもった方だったから」という答えになると思います。しかし、聖書の描写によりますと彼女は不遇な生涯を送ってきた方であり病を数十年間負い続けていたと記されています。ですから彼女はもう何も持っていなかったのです。主イエスはあえて何も持っていない彼女を癒して「信仰とは何か」を教えてくれたのではないでしょうか。
自分にはきよい生活など無理だとか、人を赦すことなど無理とか、愛することなど無理と思い知らされるのが人生かもしれません。けれども主イエスはこの出来事を通して、わたくしたちの持ち物や才能の問題ではなく神がわたくしたちを変えて下さることを信じることを教えてくれているのではないでしょうか。

私も神を信じたときから人生が変えられました。何か力のあるものを神以外に持っていたわけではありません。持っていたのは弱さだけでした。けれども、今振り返ってみますと、神は信じるきっかけを与えて下さり、そののち主イエスが信仰を見出してくださったのだと感じるのです。その過程(神に守られる生活)はどんなものよりも価値がありました。そして、願っていた通りわたしの人生にはまだ不完全さは残っているとは思いますが正しいと思える愛が保たれているのです。

このクリスマスを神に従って生活を変えるきっかけとされてはいかがでしょうか。必ず「わたしの人生は神によってのみ守られてきました。」という信仰を、後の日に主イエスはわたくしたちの人生に見出してくださるでしょう。信仰の結果には苦しみだけでなく神の御顔があるように思うのです。主イエスが見出してくださったように・・・、苦しみはあっても神も共に居て下さるのです。

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