「愛を見出す人々」(2コリント2章8節) ( 12.29/2013 )
「そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。」(8節)

パウロは神の臨在をいかに濃密に体験できるかということを大切なものとして位置付けています(2コリント3章18節等)。しかし、パウロがコリントの教会で体験したのはそのような個人的な体験の深さとは関係のない、パウロの負っていた病やキリストと出会った時期の差による使徒性の格差等具体的、且つ個人的な問題でした。そのような中で彼はコリントの人々を導きました。わたくしたちの信仰生活においてもどんなに豊かな神体験をしている方でも実際生活の中で牧師を受け入れられなかったり家族や地域社会の方々を愛することが出来なかったとしたならそれはきっと辛い生活であろうと察するのですが、如何でしょうか。

パウロは自分の弱さを披歴しながら神体験の豊かさに勝る、更に進んだ勧めをしています。それは霊のエネルギーを周囲の方々の益になるように倫理的に方向づけることでした(ガラテヤ人への手紙5章25節、ピリピ人への手紙2章5節)。これは何か一隊の軍団が何かの慈善事業をするというのではなく、彼が薦めたのは隣人の愛を捜すことでした。そのために必要なことは何だったのかと言いますと、恐らくパウロ自身の病であったでしょう。また、強烈な個性によって他者を躓かせてしまう芯の強さだったかもしれません。すなわち彼の弱さとして数えられることの結果生じたであろう離脱した人々のために、愛すると言わず、愛を確認すると言いました。すなわち、一方的な力の行為ではなく相互の関係を築きなさいと言っているのです。彼はその人々を受け入れ彼らの中にある愛を捜すように勧めているのです(2コリント2章8節)。

キリスト教は地域社会の人々にとってはわけのわからない集団でありましょう。近づく理由が無いというのが正直な見解だと思うのです。確かにその中で貴ばれる神による新しい人生は神に由来するだけに説明しようにもなかなか難しく神の御心ひとつのようなもので、キリスト者は何一つ自慢もできなければ、そのような強さを受けているわけでもなく、宣伝できるものは「神の愛」という絶対的な神の慈愛以外には何も受けていないのです。そのようなわたくしたちに出来ること、それは隣人の欠点捜しでは決してなく、隣人の愛の兆しと言いますか善意の徳と言いますか、人を立たせる根源的な力のようなものを見出すために社会と接すればよいのではないかと思うのです。

パウロは教会、すなわち自分と同じ考えをもっていてくれる仲間たちに低い位置に立つことを勧めています。決して考え方の違う人や生活習慣の違う人を裁かないように、ただ愛を見いだしてきなさいと命じています。
年末年始、多くの愛する方々と出会う機会を得ますけれども自分の愛を奮い立たせるのではなく、考え方の違う多くの大切な方々のうちにある愛を見出すために祈りつつ家族と接しましょう。なぜなら、わたくしたちがイエスから受けた愛は手も足も十字架に固定されたお方の愛であったからです(1コリント2章2節)。本当の愛とは与える愛ではなく受け入れる愛なのではないでしょうか。

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