「私たちのいのちであるキリスト」(コロサイ2章1節〜3章17節) ( 1.5/2014 )
「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3章4節)

本日はキリストとの関わり、愛の源について考えてみたいと思います。
以前福島県の三春町の三春新生教会に福岡県の油山シャロームチャペルからキャラバン隊が来てくださった時に見せてくださったのは「白菜夫人」という絵本劇でした。地域の方々といきなり心を開いて悩んでいる課題について語り合うというのは難しいことだと思いますが、このキャラバン隊の方々は絵本劇のメッセージを通してただ一人、イエス・キリストについて教えて下さり集われた方々の人生にイエスとの関わりを与えてくださいました。その絵本劇の内容は、白菜夫人に見立てられたキリストは自分の体である葉をアオムシに与えて養うのです。当然白菜夫人の姿は変わり果ててゆくのですが、アオムシが蝶へと成長して白菜夫人の体に泊まり美しい洋服となるというお話でした。

わたくしたちが地域の方々に伝えるべきメッセージとは何かの哲学ではなく恐らく漠然とした愛という思想でもなく具体的にイエス・キリストという存在につながるという事ではないかと思います。コロサイ人への手紙で言われているメッセージは、自分の命で生きるのではなくてキリストの命によって生きるということです。自分の体がどんなに疲れやすいかお互いよく知っているところだと思います。疲れれば怒りやすくなってしまいますし、当然病気になるでしょうし気持ちも落ち込んでしまうかもしれません。しかし、コロサイ人への手紙はキリストと共に死んでよみがえった人生を生きていることをわたくしたちに教えてくれています。白菜夫人に泊まった蝶のように主イエスに泊まり続ければ新しい生き方が見えてくるのではないでしょうか。

コロサイ人への手紙で沢山のメッセージが語られていると思うのですが、
第一に救いのしるしの変化です(2章)。もはや様々な規定を守っていることが救いのしるしではなく(2章16節)、幻を見たなどの不思議な体験が救いの証拠なのでもなく(18節)キリストの命によって生き、互いに結び合い助け合っていることこそが救いのしるしなのです(19節)。神は権威のかしらであるキリストと共にわたくしたちを葬り、神を信じる信仰によってキリスト共によみがえらせたので、もはや空しいだましごとの哲学にだまされてはいけないと言っています(8節以降)。すなわち、わたくしたちを責めたてている債務証書を無効にされ、すべての支配と権威をご自身に従わせておられると言っています(15節)。

第二に、天に完全な体が与えれていると約束されています。十全な救いは未完成ですがやがて与えられます。そのために今もキリストとひと続きの体とされていて(2章12節、13節、19節、20節)天を思う生活ができるし、隠されていて見ることはできなくてもキリストとつながっていることを通して命を確認できると証ししています(3章2節、3節)。

第三は、同情心でしょうか(3章12節)。文化や人種、社会的立場が違っていてもキリストはすべてのうちにおられると証しされています(11節)。わたくしたちの命はやがて栄光のうちに現れるから今の悪い欲も怒りも捨てて良いのです(5節、8節)。「主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい」(13節)

様々な試練があり、目に見える幸せによって喜びもし、疲れを感じることもあると思います。しかしキリストに泊まるとき、新しい生き方、罪のゆるしと天のいのちと悪に囚われない生き方、キリストとつながったいのちが見つかるのです。

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