イエス・キリストが罪とされた(コリント人への第二の手紙5章11〜21節) ( 8.10/2010 )
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(21節)

「罪はゆるされているのだろうか。」「もうさばかれないですむのだろうか。」と多くの人々は考えておられると思います。
聖書によりますと、罪ゆるされるために何かの善行をしなければならないとか、教会の掃除をしなければならないとは書いてありません。神は罪を知らないイエス・キリストを罪とされたと証言しています。

では、救われる方法は何のなのでしょうか。

私たちにできることはないのでしょうか。少なくとも神の御計画は救いの道を人間の努力に求めていません。神の御計画を無視しますといろいろ考え出せると思いますけれども、神の御計画は神ご自身でその道を準備されることでした。

ですから、教会は善行を積むために集う集会所ではありません。奉仕において優劣を競うところでもありません。罪に悩む人々が集い「神がイエス・キリストを罪とされ、代わりに私たちが神の義とされた」という神からの語りかけを聞き信じて受け取るところです。

そして教会としての使命、そしてクリスチャンひとり一人の役割は神がイエス・キリストによって私たちと和解してくださるというメッセージをまわりの人々に届けることです。

罪は私たちの力で拭うことはできません。けれども神は今も罪に悩み新しい人生を歩み出せない私たちに「イエス・キリストの十字架のゆえにあなたを新創造をする準備はできているよ」と語ってくださっています。私たちのために罪とされたお方をずっと忘れないで大切にし、このお方のために新しい生き方を選択致しましょう。

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