「信仰の礎」(使徒の働き14章22節) ( 1.19/2014 )
「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言った。」(22節)

新約聖書には苦難という言葉が27回使われています。苦という言葉で検索しますと99回使われています。救われるとは苦難から救われるのではないのでしょうか。一体何から救われるのでしょうか。わたくしたちがこれから伝えていこうとしている福音の内容について今日は確認したいと思うのです。と言いますのは、教会に通う理由について多くの方はご利益を期待していると思うからです。ご利益ではなく神がおられる以上そうせずにはおれないというのが本来の回答です。

わたくし自身、信仰の先輩たちの救いの証しを聞かせてもらうまでは信仰の結果はご利益であると信じ切っていました。ところが、先日お聞きしました体験談に登場したのは「苦難を通して信仰を持った」という証言だったのです。すなわち、苦難の中で信仰だけが自分を支えてくれたというのです。苦難が改善されたから信じたのではなく、苦難のままで信じることができた信仰があったと証しされたのです。一体、苦難の中で培われた信仰とはどのような信仰なのでしょうか。わたくしがその先輩から感じますことは、敬虔という神への態度です。これは律法主義が根底にあっては決して培われない信仰です。なぜなら、律法主義は不幸を自分の不信仰の結果であると教えているからです。律法主義は自分に対してさえ、いつまでも不完全な自分を責め一向に神に信仰の目が向かないのです。

けれども、苦難を通して生み出された敬虔には力があります。それは苦難の中で許されている信仰だからです。今ある現実は混沌としていても一瞬前までの過去を振り返るとき、命を与え支えてくださった神がおられるのです。使徒パウロは律法主義の環境で育った人物です。当然主イエスを信じるまでの人生においては律法という基準でしか苦難を理解できなかったでしょう。しかし、彼が主イエスを見たとき、神が唯一よみがえらせたイエス、わたくしたちのよみがえりの初穂であるイエスを見たとき、イエスの人生は苦難に彩られていたのです。苦難の中で主イエスが伝えたメッセージは人間に対する神の全的受容でした。パウロのように目が悪くても大丈夫、説教が下手でも大丈夫、イエスに出会って以来パウロにとっての救いは神の大きな心に根差すようになったのです。結果、以前は律法しか知らなかったパウロの信仰がユダヤ人という壁をはるかに超えて異邦人にまで、神の関心、神の救いは及んでいると確信したのです。そして、その証拠を神による救いのわざに帰したのです(使徒の働き15章9節)。

大分で言えば大銀ドームは4万人収容ですが、大銀ドームどころでなくローマ(海外)にまで彼の福音の確信、すなわち、神の愛に対する確信は強まり拡がりました。ところがエペソ人への手紙には奴隷は奴隷らしくなど福音とは思えない記述が生まれています。そのいきさつは、パウロが処刑された後、紀元70年にはエルサレム神殿は崩壊し、神殿に仕えていたサドカイ人たちが失職し祭儀主義が衰えるのと同時にパリサイ人による律法回帰の力が強まり、クリスチャンたちは一世紀末ヤムニア会議で異端とされシナゴークを追放されます。しかし、ユダヤ教からの働きかけでユダヤ人キリスト者たちの多くはユダヤ教に回帰してしまい、キリスト教会には多くの異邦人信徒が残されることとなります。その中で再び脚光を浴びたのがパウロでした。そしてコロサイ、エペソ、第二テサロニケ等が執筆されます。しかし、問題は第一コリント、ガラテヤやローマ人への手紙でパウロが語っているメッセージと内容に相違がある点です(ガラテヤ3章28節参照)。

パウロが救われるために多くの苦難を経なければならないという確信に至った理由は主イエスにあり、パウロは律法を通して神を知ったのではなくイエスの苦難を通して神を知ったのです。真の敬虔とは律法やそれを教条的に教える従順を目的とするものではなく、苦難の中で支えてくださった神の恵みを回顧する中で神に対する畏敬に向かって培われるものなのではないでしょうか。そして神の顧みはユダヤ人という枠にとらわれないことを律法から救われたパウロが体験したように、現代も救いはクリスチャンという枠にとらわれていないのです。ですから、大胆に他宗教を担う方々にも信仰によって救ってくださる神をのべ伝えるのです。イエスが野の花を見よと言われた、野の花を咲かせる神はすべてを支える差別のない神であるゆえに、神に期待できるのです。この真の神にすべての人は受け入れられ祝福されているのです。このことを神は主イエスを通して証ししておられるのです。

過去を見る後ろ向きの信仰は弱く感じられるかもしれませんが、確実に神にお逢いできる、敬虔へとつながる大切な信仰なのです。それは必ず確かな信仰の礎になるでしょう。「機会と時間があるのに、悔い改めの実を結ぶことを怠るなら、次の恵みを受けることは当然期待できない。」と、ある有名な牧師は言いました。神の恵みの継続にはコツがあるようです。しかしすべては神の恵みなのです。ゆえに安心して、神に心を向け続け信頼しましょう。神にお応えするのは喜ばしいことです。

「野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから」(マタイ6章30節)

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