「復活」(1コリント15章12節) ( 1.26/2014 )
「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうしてあなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」(12節)

皆さんは復活についてどのように考えておられるでしょうか。聖書には2種類の復活観が共存しています。その両方を保持しているのがヨハネの福音書(5章、6章)ですが、片方だけ保持しているものにコリント第一の手紙とエペソ人への手紙があります。どうでもいいではないかと思われるかもしれませんが、愛する方を先に失っている方にとってはどうでもいい話ではありません。肉体をもって復活できるのか、それとも徹底的に観念的な復活(エペソ2章5節、6節)に過ぎないのかはっきり知っておくことが必要だと思ったのです。使徒パウロは前者の考えを支持して死者の復活が無ければわたくしたちの信仰は無意味であるとまで語っています(1コリント15章14節)。

死者の復活についてある有名な先生が「ちゃちな迷信に過ぎないとお思いになる方」という例を挙げて説明されたときに(なるほど)と思いました。そのような方がおられることについて(確かに!)と感じたのですが、もし、片方がちゃちな迷信だと一部の方に断定されうるなら、その逆もあるのです。すなわち、復活について哲学者たちが受け入れやすいように観念的に理解して済ませる思考もちゃちな迷信に過ぎないと言いうるのです。少なくともパウロは自分の信仰をかけて死者の復活を信じました。そして、ある有名な牧師は次のように解説してくださっていました。「死んでも私は私であり、貴方は貴方であり、貴方と私の関係は死んでもなお続くという信仰は肉体の復活を信じることによって成り立つ。肉体がなければ私は私でなくなるし、貴方は貴方でなくなり、私たちの関係はなくなる。」

教会は何を伝えようとしているのでしょうか。その一つの明確なメッセージが死者の復活であるということです。そして、これは性(天から与えられた本質)の神による肯定を教えているそうです。イエスは「貧しい者たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」とルカの福音書6章20節では積極的な意味で貧しくなることを教えていますが、同時に、自らそのように貧しくならなくてもそのような性を神から授かっておられる場合もあります。マタイ5章3節の「心の貧しい人は幸い」という「心の貧しさ」は息の弱さを意味するそうです。望みを失い心細さを感じるときもその人を神は抱いて下さるのです。「幸い」とは「祝福されている」という意味だそうです。そしてヘブライ語の原意は「まっすぐ突き進みなさい」という意味だそうです。すなわち既に神に受け入れられているのです。ゆえに、腑に落ちないという言葉がございますが、神への祈りは逆ではらわたからささげるものなのかもしれません。心の底から生きることができるのです。神の教会で共に生きることができるのです。

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