「山場に必要な信仰」(創世記3章21節) ( 2.2/2014 )
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3章21節)

マルコはイエスとどこで会えるのか、そことを福音書に記録しました(マルコ16:1〜8)。それはガリラヤでした。それはエルサレムの人々にとっては北の田舎町でした。しかしイエスが病人や貧しい人々などと共に歩んだ地でした。福音書が書かれた時代には既にイエスはいなくなっていたにもかかわらずマルコが出会ったのはイエスを感じながら生活している人々であったゆえに、マルコはこの福音書を書けたのではないでしょうか。これは現代においてイエスを探し求めているわたくしたちにとっても大切な真理が教示されていると思うのです。すなわち、ルカがイザヤ書28章16節や詩篇118篇22、23節に人々に捨てられたけれども隅の親石とされたイエスを見出したように(使徒の働き4章11節)、わたくしたちの人生の生活のためにもイエスが親石となって祈りを聴いていて下さるお方であることを教えているのではないでしょうか。どんな祈りに答えて下さるのでしょうか。使徒の働きに描き出されている人々も既に祈りを通して(使徒の働き1章3節以降)イエスに出会っていました。「イエスとはどこの国の方ですか?今も生きているのですか?何ができるのですか?」という具合に実存するものからの慰めしか信じられない時代に生かされているのがわたくしたちかもしれません。しかしどんな祈りへの答えなのかと言いますと、それは神を見失ってしまったわたくしたちの重荷への答えなのです(使徒の働き4章11節)。主イエスが今も祈る人々を支えてくださるのです。

主イエスに委ねたら何にもしなくて良いのでしょうか。それは間違っています。悔い改めとは方向転換することですから生活を変えていく必要があります。愛せなかったことを悔い改めた場合、愛する人生に歩み出す必要があります。恐らくそのために主イエスに祈るのです。雨乞いの仕方ではなく、灌漑事業のために努力する力をイエスから受け取るのです。モーセ(出エジプト24章)もイエス(マタイ17章1〜9節)も山場に対した時、祈りで立ち向かいました。変貌には恐れが伴いますが、そのときこそ神に祈るのです。

創世記にはアダムとエバが恥を感じたときイチジクの葉で身を隠したと記されていますが、神の方法は動物の皮でした。これは人間がしつらえたものではなく、神からのプレゼントでした(創世記3章7節、11節)。対人関係で苦しむとき、その苦しみの根は自分自身を受け入れられないことによるのだと有名な牧師が説教してくれています。動物の皮が教えているのは恥を癒すものが神からの愛以外にないということではないでしょうか。山場を越える勇気は祈る中で受け取る主イエスの愛に依るのではないでしょうか。山場に必要なのはわたくしたちの恥を覆ってしまう主イエスの愛です。

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