「隣人の赦し方」(1ヨハネ1章7節) ( 2.9/2014 )
「御子イエスの血はすべての罪からわたしたちをきよめます。」(7節)

以前家族の中で、苦労をかけられた経験を通してキリスト教に入信した方のお証しを聞いたことがあります。隣人を赦すことを通してキリストに出会えたということは幸いだなと感じました。

一般的に誰かを赦すためには赦さなければならない相手の方の生活態度が改められることなどが条件になるのではないかと思います。しかし隣人の思想は動かせるものではありません。すなわち、本日聖書を通して証言されている神の御子イエスによるきよめのわざは、御子イエスの血がすべての罪からわたくしたちをきよめるというみ業なのです。すなわち、血を流すお方と赦される対象が別なのです。一般的な感覚では努力した人が変身できるのではないかという感覚があると思うのですが、血を流したイエスの故にすべての人が罪を赦されるというのです。

このことをわたくしたちの人生に置き換えてみますと、まず、わたくしたちの罪は御子イエスの流してくださった血の故に赦されています。では隣人の罪はどのように理解すればよいのでしょうか。1ヨハネ3章16節には「主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた兄弟のために命を捨てるべきである。」と記してあります。すなわち隣人の血ではなく、わたくしたちの血で隣人の罪は赦されるのだというのです。

自分の命をどのように用いるべきか考えることがあるのではないかと思いますけれども、自動的に知らない間に心が変わっていたというのではなく隣人のために用いるとき、隣人を赦すことのできる人生が開かれるのではないでしょうか。親が子を愛するとき、親が自分の命や財産や誇りを捨ててくれるゆえに子はだんだんと成長できるのですが、隣人との関係においても同様ではないでしょうか。
「罪を告白する」(1ヨハネ1章10節)とは相手に対して「実は〜」なんて告げることを意味しているのではなく、隣人のために自分の命を用いて隣人を赦された者とすることが隣人のゆるし方についての聖書のメッセージなのではないでしょうか。数百年前に主イエスを信じて殉教していった方々が最後に祈った祈りは「父よ、彼らをお赦し下さい」でした。赦すには自分の命が必要だったのです。私たちの救いは命の用い方に鍵があるのではないでしょうか。

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