「一個の銃弾」(2コリント5章15節) ( 2.16/2014 )
「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5章15節)

以前中国で宣教師としてご奉仕された先輩牧師の著書を読みました。その本に証しされていたのは一個の銃弾でした。自分のこめかみから頭を吹き飛ばしたはずの銃弾が不思議なことに銃からこぼれ落ちてしまい命を守られたというお話でした。そしてこの牧師はこの経験を通して「とにかくわたしは伝道のためにだけ生活しよう」と決心したと記しておられました。

(一個の銃弾とは何だろう)と考えました。わたくしたちの人生における銃弾の意味を考えますと、人生の重荷ではないでしょうか。そしてそれは既にわたくしたちの頭に打ち込まれ頭の真ん中を占めてしまい、どうにも取り出しえないものかもしれません。しかし、聖書に記されている主イエス・キリストの死は、パウロだけでなくヨハネにとっても(1ヨハネ3章16節)ルカにとっても(ルカ10章23節)すべての人のための死であり、隣人のための死であったと証言されています。
すなわち、銃弾を打ち込まれていると思っているのはわたくしたちの感覚ですが、打ち込まれずに銃弾は銃口から抜かれていたと考えることもできるのではないでしょうか。そしてこれは新しい人生の始まりではないでしょうか。

パウロやルカやヨハネが証言した主イエスは弟子たちの人生を自分の命よりも大切にしたお方でした。わたくしは先日炭焼きコーヒーを作りました。しかし、これが隣家の方にとってどんなに迷惑なことだっただろうということに気づき反省し改めようと思っております。自分の小さな利益のために隣人の人生を軽んじることがないように改めたいと思っております。彼と同じように、自分の命でなく隣人を愛しはじめたいと願っております。

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