「救いとは」(マルコ10章45節) ( 2.23/2014 )
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

神は御子を遣わしすべての人の罪を御子の十字架の故に赦し彼を信じる信仰の故に、洗礼を通して古い人生に死んだ者とされ、新しい人生を生きるために聖霊を心に送ってくださいました。

神はわたくしたちを生かし神としてわたくしたちの人生に関わってくださっています。しかし、神を認めて生きることは神が出会わせてくださった人々を認めることを意味します。すなわち、主イエスが人々から罵られることも受け入れて、自らを十字架上の死にまで神に対して自分を従わせて生涯を歩まれたように、わたくしたちが神を認め神と共に生活するためには、どうしても御子イエスと同じように神が与えてくださった隣人の生涯を受け入れる必要が生じます。同時に自分自身がへりくだることと時には傷つくことさえも要求されます。

神が与えてくださった聖霊は御子の内に働かれた聖霊であり、現在御子がわたくしたちに遣わしてくださっているのは御子の内にあった聖霊です。わたくしたちが教会に一度も入ったことがないキリスト教と縁のなかった方々に対して証し出来る救いはこの御子の内に働かれた聖霊によるものであり、わたくしたちの内に送られている聖霊の実です。

さて、救いとは何なのでしょうか。恐らくこの聖霊の実を結ぶことです。イエスは弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8章34節)と告げました。十字架を負おうとするときにどうしても聖霊を求めるからではないでしょうか。神の救いとは十字架を負うことであり、互いに違った存在であるわたくしたちが受け入れ合い、補い合い愛し仕え合うそのような救いなのです。決してどこからか隕石が降ってきて世界の平和が出来上がるのではなく、神がお遣わし下さった御子イエスの十字架によってわたくしたち自身が神に受け入れられ赦されたことを信じ、聖霊を頂いて聖霊を受け入れつつ隣人を赦し受け入れ愛し始めたときに隣人との交わりの中で神の救いは体験できるのです。隣人の上に立つことが救いではなく隣人に仕えることが救いなのです。救いとは華やかな救いではなく現実にすぐ傍で生活している方々のそのままの姿を愛し共に生きるために、傷つけられることかもしれません。今までは気の合う仲間とだけ付き合ってきたわたくしたちかもしれませんが、愛を必要としている場へと聖霊は促してくださっているはずです。

この聖霊から受けた慰めを語り合える交わりの場が教会です。それぞれの生活で聖霊がどのような方法で、弱く、愛し祈ることが難しいわたくしたちを赦し慰め勇気を与えてくださりそれでもまだ愛せないのか、愛せたのか、そして新しい人生が与えられたのか話を聞けるのが教会です。痛みの中に愛を加えたとき、きっとそこに自分自身の救いがあるのです。隣人のために負わせていただく十字架が救いなのではないでしょうか。隣人の笑顔の先にある聖霊との親しい交わりを目標にし、まず家庭の中から愛しはじめましょう。

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