「死に備えて」(1コリント13章12節) ( 3.2/2014 )
「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしたちは、今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(12節)

先週、ラザロの記事(ヨハネ11章、12章)を通して復活についてお話しいたしました。するとこのホームページを作成管理してくださっている大先輩からクリスチャンだけが復活すると考えるのはどうだろうか、ということでご指導を頂くことが出来ました。

神はわたくしたちをやがて小さな存在にまで変えられる。けれども、神はそんなわたくしたちの中にからしだねのような小さな信仰を捜し出して下さる。それが神の国である。主イエスもマタイ26章39節で「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と言えたのはマリアに香油を注がれ最期を覚悟した時でした。

神がきっとわたくしたちの内から見出して下さる神の国、からしだねほどの信仰とは何なのだろう、神に対する信仰であることは分かりますが、「空の鳥が来て枝に巣を作る」(新約聖書マタイ13章32節)、「からし種一粒ほどの信仰」があれば、山を動かすこともできる(マタイ17章20節)とは何だろうか、と考えてみました。

先輩が注意してくださったのは神が無に等しい存在として何の差別も無く顔と顔を合わせて見る(1コリント13章12節)のに、キリスト教徒が勝手に信仰のハードルを付けていることへの警告、すなわち神の国を暴力で奪ってはいけないというものでした。

では神が死後か今か分かりませんけれどもわたくしたちの人生に見出して下さるからしだねの信仰とは何なのでしょうか。それは神がわたくしたちを愛してくださっているということだと思うのです。二つだけご紹介したいのですけれども、まず一つ目はタラント(マタイ25章15節から30節)、またはムナのたとえ話(ルカ19章11節から27節)ですが、平等に与えられていたのは時間でした。ここに神の愛を感じるのです。もう一つは聖書のどこと言われても困るのですが、神の赦しです。神は限りなくわたくしたちを赦して下さるのです。このことを教えられますと、神に対して振り上げていた剣を自然とおろしてしまうと思うのです。

神はきっと死の前に神がわたくしたちを愛してくださった証拠をお示し下さるでしょう。それは神に赦されているという確信かもしれませんし、生前にこのことが許されなくても死を迎えることを通して強制的に無に近づけられるお互いですので、すべてのものを取られる中で、神の前で何の身分の差も無く顔と顔を合わせて見るその時に初めて神の愛に気づくのかもしれません。

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