「立ち上がる力をください」(1ヨハネ1章7節) ( 3.9/2014 )
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(7節)

もうすぐ3月11日を迎えます。大きな試練を経験された方々がこの日を無事に乗り越えることができるように、震災の映像ではなく希望をわたくしたちは必要としています。ただ神に愛された証拠さえ見つかれば私たちは慰められます。わたくしも以前は小さくされることをどれだけ恐れていたか知れません。しかし、からしだね一粒の信仰へと神は導いて下さいました。「おまえ何者だ、」と神に祈る方がどれだけおられることかと思います。けれども、顔と顔を合わせて見せると言われています。敵も味方もなく、誰も責める必要のない日がやがて来ます。

本日は祈りについて、それも他者のためではなく自分のための祈りについて考えてみたいと思います。どこから立ち上がる力が来るのかという問題です。聖書には「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである」と記されています。神の赦しという土台を提供してくださっています。ゆえに、ただ信じて自分が立ち上がるための力を神に求めて良いのです。

今までは隣人のための祈りが自分を支えるというような錯覚に陥っていたように思うのです。人とはね、支え合うのだよ、それはある面、正しいことです。しかし、人の赦しと神の赦しは別です。今日絶対に受け取らなければならないメッセージは神がわたくしたちを赦してくれているというメッセージです。ですから、神に対して何の遠慮も無く、「立ち上がる力をください」と祈れるのです。どんな危機的な状況に陥っておられたとしても神はわたくしたちを罪なき者として見、祈りに耳を傾け、立ち上がるための力を与えて下さるのです。何度でも、どこからでも。

ヨハネは贖いの供え物としてのイエスをここで語っているのだと思います。立ち上がる力も出て来ようが無いとき、愛された証拠はあるよ、とヨハネは伝えたかったのではないでしょうか。既に愛されているのですから「ここから立ち上がる力をください」と正直に祈れるのです。神が既にまったくわたくしたちを赦しておられるその所にしっかり立たせていただいて自分のために祈れるのです。


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