もろもろの供え物をみ心にとめ(詩篇20篇1〜9節) ( 8.16/2010 )
あなたのもろもろの供え物をみ心にとめ、あなたの燔祭をうけられるように。(3節)

この詩篇は次の21篇と対をなしていて、民が王の指揮下に戦った戦いの前後にささげたとりなしと感謝を記しています。

日本は戦後65年経ち今や死の危機も知らない時代が来ているように思います。この詩篇はアンモン人(ロトの末子、創世記19:38参照、領土はヨルダン側の東側アルノン川とヤボク川の中間地帯)、スリヤ人(シリア・アラブ共和国のこと)と戦った時(サムエル下10章14〜19節)のものと考える可能性もあるとのことです。歴史を回顧し語り継がれた詩篇です。

1節から5節が王のための祈り、6から8節が王の確信、9節が民の祈りとなっています。問題となるのは4節と5節の「あなたのはかりごとをことごとく遂げさせ」と「あなたの求めをすべて遂げさせ」ではないかと思います。人間の思いが成就することは恐ろしいことです。そしてイスラエルの歴史は紀元前722年北イスラエル、紀元前587年南ユダがそれぞれ滅亡し、530年代に補囚から帰還した後も紀元70年にはローマ帝国によってエルサレムは陥落します。

そして神の祝福を求める根拠は3節です。「供え物をみ心にとめ」という文言です。けれども確かにこの歴史は動物の供え物が無力であったことを証明しているでしょう。そして、西欧諸国の植民地政策を見ますときに、人間の欲望に対してキリスト教の教理も無力さを隠せません。

けれども旧約聖書の時代にささげられた供え物はイエス・キリストの模型だと言われています(ヘブル人への手紙9章〜10章参照)。そして、新約聖書は「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。」(Uコリント5:14)と教えています。すなわち私たちの心も供え物の対象です。

イエス・キリストの私たちへの愛(死)を受け入れるならば、私たちの歴史にも変化が生まれるのではないでしょうか。

TOP