「罪と赦し」(ヨハネ8章1節〜11節) ( 3.30/2014 )
「ところで、あなたはどうお考えになりますか。・・・あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(5節、7節)

主イエスの生きていた時代も罪を犯した者は生きていてはいけないという圧力によって公的な秩序が保たれていたことが分かるのが今日のテキストです。論争の発端はイエスを訴える口実を得るためであったのですが、イエスの答えはイエスを訴えようとしていた人々に生きる力を与えました。

事件は姦淫の現場でひとりの女性が捕えられたことに発していました。人々はイエスにこの女を石で打つべきですか、と問うのですがイエスは「あなたがたの中で罪を犯したことの無い者がこの女に石を投げつけるがよい」と返答され、歳をとった方から順に出て行ってしまったのです。(そーか、論争に負けて悔しくて出て行ったのか)とか(自分の罪に気づいて恥ずかしくなったのか)などなど様々なご意見があるかと思いますが、もしかしたら、一人くらいこのイエスの言葉で生きる力を得た方がおられたのではないかと思ったのです。

すなわち、罪を犯したから人生は終わりなのではなく、人間の裁判によって人生を失うことが当たり前のことではないのだと気づかされて生きる勇気を受け取って笑顔で帰った老人もいたのではないかと思ったのです。

イエスはマタイ13章44節で天国を宝物に譬えています。宝の埋まった土地を見つけたら全財産をつぎ込んでその土地を買うというのです。それほどまでに尊い天国とは何なのだろうと思うのです。わたくしは罪人が生かされていること、これが天国の条件ではないかと思うのです。(天国は財産で買うものではありません。この譬えの財産は自分の人生の価値を表すものであり、自分の人生の意義は立派な業績ではなく、汚点としか思えない埋められた過去も、神に受け入れていただいていることを知ることにあるという意味ではないかと思います。)

イエスの時代も目に見えていたのはイエスであって神ではありませんでした。しかし人々の弱さを知った上で苦しむ方々を受け入れたイエスによって人々は神と出会ったのです。年長の方から順に出て行ったというのは、それだけ罪が重くて恥ずかしかったからという回答もあるかもしれませんが、もしかしたら、こんな罪人が生きていくことを神が認めてくれているのかもしれないと受け取った老人が嬉しさを心に抱えきれずに急いで出て行ったのかもしれません。民衆や律法学者やパリサイ人の年長者以上に、神はこの傷つけられているひとりの女性に神の赦しを受け取ってもらいたいと願っておられるのです。

わたくしたちの過去には沢山のつらい思い出があるかもしれません。しかし、神はそれをすべて赦して生きることを命じてくださっているのではないでしょうか。弱さを受け入れ合える社会も作れるのではないでしょうか。民衆や律法学者やパリサイ人の年長者以上に、神はこの傷つけられているひとりの女性に神の赦しを受け取ってもらいたいと願っておられるのです。

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