「被害者の苦しみ」(ピリピ3章11節) ( 4.6/2014 )
「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(11節)

あなたは罪の赦しをしきりに宣伝しているけれども、被害を受けている側へのメッセージは無いのか、というご質問を頂きました。傷つけられた側の心は、どのようにして癒されることができるのか、見通しはあるのかという問題です。

主イエスは、やもめが息子を葬りに出しているところに遭遇して、「深い同情をよせられ」(口語訳)、「もう泣かなくとも良い」(新共同訳)とおっしゃったという記事が聖書にはありますが(ルカ7章13節)、日本で普通に育ってきた私共の場合、生活の中では恐らく仏壇の前か、キリスト教の礼拝堂か、神社の境内の前か、もしくは自分の決めた場所など、解決の場を必要としていると思います。パウロはローマ皇帝による裁判を受けなければならない重圧と、ユダヤ主義との対決が継続中でした。

パウロは、イエスの人生を知って、過去(7節〜11節)と将来(20節〜21節)に解決の糸口を見つけました。それゆえに、イエスと同じ道を歩むための苦しみをしています。ユダヤ主義の律法の要求を満たすことで生きていこうとする価値基準を否定し、キリストの生涯と一つになることによって救われようとしているのです。神がイエスを見捨てずに彼をよみがえらせた故に、パウロもイエスの足跡、すなわち、律法に照らして罪人とされても神が愛した方々に信仰による救いを伝え、律法に回帰させようとする働き人たちを警戒したのです。それについて書いているのがピリピ人への手紙です。パウロは異邦人主体のこの教会を設立した当事者で、教会からはパウロに惜しみない協力を寄せられていました。

具体的には、割礼などに価値をおき、キリストの十字架の死は人にとっての救いと口で言うだけでは不十分であり、それは「十字架に敵対」する者、食物規定を神聖化して「自分たちの腹を神とする」者と、ユダヤ主義的キリスト者を批判します。パウロのように復活の信仰に生きる者は、ユダヤ主義者のようにすでに救いを獲得したという現状維持的・静的なものではなく、動的に目標を目指す生き方、つまり最終的には再臨のキリストに出会い、霊的な体に変えられるという終末的希望に生きることである(2章11節)、とパウロは伝えます。ただし主イエスの思想は地上に神の国を望んでいます。

イエスの言葉からわかることは、イエスと一つになる(イエスに従う)者には2つの条件があります。「自分を捨てること」と、「自分の十字架を背負うこと」。これはそれぞれの人生の中に実現されるべきこととして語られています。自分を捨てるとは、今眼前にある欲望(自分たちの腹を神とする、3章19節)を捨てること、これは自分でなく隣人の人生を富ませることを意味します(本来の指導者のあり方なのだと思います)。また「自分の十字架を背負う」とは、世間一般では敗北者と指差される者になる亊を意味し、そうなる「覚悟」を持つと言う事でしょう。イエスはそういう生き方をし、それを神は「義」(正しい)とされ、死から復活させられたのです。ゆえに、イエスに従いたい者はそういう生き方をしなさいと示されています。

今、自分を捨てているのは主婦かもしれませんし、夫も自分を日々捨てて家族を守っていると言えるでしょう。更に何をパウロは捨てさせたかったのでしょうか。恐らく自分の腹を神とする働き人たちに対して警戒させたかったのです。ピリピの信徒さんたちを責めているのではないのです。なぜなら社会には精一杯生きてきたのに理不尽に被害を受ける人もいます。被害自体は神が起こしたことではなく、人によるものあるいは自然災害によるものが多いでしょう。そういう理不尽な被害にあった人も、イエスに従った人と言っても良いのではないでしょうか。

キリスト教が重要なのは、こうしたイエスの福音、すなわちイエスによる希望を告げることにあります。パウロが処刑に立会った殉教者ステファノは、石打ちに遭いながらもイエスと同じ趣旨の言葉を残しました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒行伝7章59-60節)と。イエスが十字架の死に至るまでご自分を脱ぎ捨てたと同じ愛が、ここにも見られます。キリスト者の殉教は常に神に対する、また迫害者をも含む人々に対する愛の行為で、憎しみと死に対する、愛の勝利なのです。キリスト者を目指す場合、愛の非暴力によって(2章1-4節)すべての人に応えイエスの福音を神の助けを受けつつ経験し続ける必要があるのです。

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