「なすべきことはただ一つ」(ピリピ3章13節〜14節) ( 4.20/2014 )
「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

本日はイースター(復活祭)です。イエス・キリストが十字架にかけられて死に、3日目によみがえったことを記念する日です。出エジプト記12章の過ぎ越しの祭とも関係があります。預言者ヨハネはイエスのことを「神の小羊」(ヨハネ1章29節、36節)と呼んでおり、使徒パウロも「過越の小羊」としてイエスを紹介しています(1コリント5章7節)。出エジプトの際にユダヤ人たちが雄羊の血をかもいと入口の2本の柱に塗って神の裁きを免れたことを記念する儀式がひな型になっていると言われています。

主イエスの復活はどのようなメッセージをわたくしたちに語っているのかを今日は考えてみたいと思います。どんな困難があっても復活の日が来る、これが希望だとわたくし自身も考えて準備を始めたのですが、イエスの復活の後の地上での歩みは短いのです。使徒行伝1章3節には40日間であったと記録されています。むしろ、聖書の証言によりますとイエスが天にあげられたことを神からの大きなメッセージとして受け止めています(使徒行伝2章24節、32節、36節、3章15節、4章10節、5章31節、7章56節)。復活の後の栄光がメッセージでなく、復活の後の昇天がメッセージであったという意味は、人々はイエスが天にあげられるのを目撃した多くの人々の証言を通して初めてイエスを神の子と認め、彼を十字架に付けたことについて罪意識を感じ、イエスを拒んだことを悔い、罪の赦しを受けるためにバプテスマを受けたといういきさつがあります(使徒行伝2章38節〜41節)。

イエスの十字架の後の栄光は短く昇天にも劣る出来事だったかもしれない、という事実から何が導かれるのかと言いますと、使徒パウロはこのイエスの十字架を現在のわたくしたちの時間の中に持ってきて解釈しました(ガラテヤ2章19節)。すなわち、日常負っている様々な苦しみを長い地上の十字架と解釈したのではなく転機的な十字架を立てました。すなわちこの転機によって、キリストと共に律法によって失格者であることを認め、罪を認めて、律法によって自分を支えるのではなくて神の恵みによって自分を支える人生を始めたのです。しかし、十字架の死を、今、信仰によって受け止めることも可能である、と言うのなら残りの人生の苦しみはどのように受け止めればよいのかと問わなければなりません。使徒パウロは自身を競技者に例えています。目標があってその目標に向かって精進する競技者のようにこの世の苦しみを受け取りました(1コリント9章25節)。そして人生の目的、楽しみとしてのイエスを見つけたのです「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たす」(使徒行伝20章24節)と。

(この苦しみはいつまで続くのか、耐え切れない)と思えるとき、イエスに目を向け、まず一度律法の十字架を下ろし、神の恵みに支えられつつ新しく重荷を負って神からの目に見えない賞(朽ちない王冠のようなもの、物質的価値はないけれども栄化という意味がある)を目指して歩み始めることもできるのではないでしょうか。様々な喜びもあるかと思いますがパウロはイエスとの新しい関係から力を得て苦しみを受け止めたのです。そして更にイエスの昇天を通して神の恵みの存在を確信したのです。今を生きるための希望と神の賞は苦しみの分だけ期待して良いのではないでしょうか。過去の出来事は彼の記憶から消えてはいませんでした(使徒行伝22章4節、8節、26章14節)。しかし、そんな彼がそれでも「後のものを忘れ、」と励ましてくれています。

TOP