「律法ではなく、何故、信仰義認なのか」(ガラテヤ2章21節) ( 4.27/2014 )
「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2章21節)

パウロは、第二回伝道旅行の頃、恐らく熱病で倒れ、高地であるガラテヤ地方で静養していたようです。パウロはその地の異民族から大変な親切心で看病を受け、病気療養を行い、その過程でガラテヤ人に福音を伝えました。しかし、第三回伝道旅行でエフェソに滞在した時(紀元53-54年頃)、エルサレムから来たユダヤ教主義宣教師に、律法遵守の証として割礼を受けてしまった事を聞き及びます。当時のパレスチナでは、反ローマ抵抗運動が始まり、民族主義が昂揚して、小アジア地方のパウロの開拓した異邦人の家の教会も、律法遵守の強化の逆風にさらされていました。ガラテヤ地方のキリスト者も、割礼がないとキリスト者とは認められないと言われのでしょう、強制的に割礼されてしまいました。これを聞いたパウロは、もう福音を忘れてしまったのかと嘆いて、この手紙を書いています。割礼強制に対して、もはや律法は不要であると論じます。

バビロン捕囚前後から生じたユダヤ教は、神殿の儀式と共に律法遵守を始めました。これは神と人との断絶(つまり人間の罪)から国が滅びたと考え、神から罪が赦される事を願ったためでした。人間の知恵で罪を自力で解消しようとすると、神の前で自己正当化を行なっているのではないかとの疑問が生じます。人間が人間の罪を赦せるのなら、もはや神を必要としません。こうした神の前での自己正当化回避策として、律法が導入されました。決められた律法を遵守する事で、人間の勝手な判断が入らず、神から義とされるというものですが、しかし、律法は難解かつ大部なもので、その解釈も人により様々有って難しく、またこれをすべて完璧に一生守ることは不可能でした。つまり、永遠に神との断絶は解消されないという欠点が、すでに露呈していたのです。人間側で何とかしようとしてもどうにもならない、結果として罪がいつまでも残ります。

パウロは、回心以前にこれに悩み続け、罪の結果は死しかないと落ち込んでいました。しかし回心時に、イエスの十字架の死と復活を示され、これこそが神がイエスを義とした出来事であると確信します。つまり、神の側が自ら動いて下さった、その証明がイエスの死と復活であり、イエスの神への信(ピスティス)こそが神への信仰、このイエスへの信こそが、我々の神への信仰であり、これにより義とされるとの結論です。これは神が自らお与えになった恵みである、というパウロ福音の真髄(2:15-21)でしょう。こうして、ユダヤ教の律法によっては、だれ一人も義とされず、キリストの十字架死と復活によって初めて義とされる事を伝えます。

もし私たちが、キリストにあって義と認められる亊を願いながら、私たち自身も罪人であるなら、キリストは罪の幇助者なのでしょうか?それは絶対に有り得ないとパウロは断言します。律法遵守によっては、神の前では義とされない理由を、「律法に頼るものは呪われていると、聖書には書かれている」、「律法は幼子への道標ようなもので、信仰とは無関係で、律法を守る者は、守っているという安心感で生きているのであり、神への信仰によるものではない(3:12)」と言います。また、「キリストの呪われた十字架死は、私たち異邦人を律法の呪い(割礼)から開放してくれるためのもので、アブラハムへの祝福が異邦人に及ぶためでもあり、霊の恵みを受けるためです(3:13-14)」と付け加えます。

この信仰義認について必ず出てくる疑問として、「信仰によって義と認められるのであれば、いくら罪を犯しても、欲望のまま好き勝手に生きても良いではないか」というものがあります。これに対してパウロは、「それも絶対にありえないこと」と言い切ります。ローマ人への手紙で「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょうか(ローマ6:2)」と。つまり、信仰により義と認められ、神の恵みを知った者は、もはや罪の中に生きようする虚しい生活をしたいなどとは思わなくなる、と論破します。

さて、イエス・キリストがどうして私達の人生の喜びになり得るのか、そのことを少し考えてみたいと思います。日本に生まれ育ちますと、道徳的な生き方が当たり前のように教えられています。その中で、学べる大切な亊は「お互い様」という表現です。先日、わたくしは思いがけず、ご近所の方から大きな愛を頂きました。その時にかけていただいた言葉が「お互い様ですから」という「助け合い」の温かい言葉でした。パウロもまた「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(3:28)」、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです(5:1)」、と律法から解放されたキリスト者の自由と愛の実践を説きます。共同体での信仰に基づいた助け合い(6:1-10)を勧告しています。

神から福音の恵みを受けた私たちは、神を愛し・隣人を愛する信仰を持ち続け、またこうした愛を受ける人々に福音が継承されていくのです。こうして見ると、福音の真理がいかに人々に自由をもたらし、またそれぞれの愛の交わりをもたらすものであるかを知ることが出来ます。人々に差別を設けず、誰もが自分に与えられた信仰の確信に基づいて生きる、この福音の真理、これが私たちを活かすのです。

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