「キリストの死は人々の救いの源」(へブル人への手紙9章12節) ( 5.4/2014 )
「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(12節)

十字架刑罰のような苦しみだけで義とされるならば、為政者たちは、神を利用して国民をどこまでも虐げる亊が可能になってしまいます。ユダヤ教では、ユダヤ戦争により神殿を失った後も、全う出来ない律法を守り続け、自己義認の過ちを犯さないようにしながら、神との断絶、つまり罪を解消しようとしました。しかし、完全に実行不可能な律法は矛、それだけで盾を孕んでいます。先週も記しましたが、パウロは、律法によっては義とされず、信仰によってのみ義とされる、と私達に伝えました。すなわち、神の義は人間の側の努力によるものではなく、神が自ら準備してくださったものであり、神を信じ・神を愛し・神に従順に生涯を生き抜いたイエスを、神が十字架の死から復活させた亊により、つまり神ご自身によって義が示されたので、律法によらずイエスを通して、人々は神から義とされるようになりました。そこにはイエスの義のみがあり、もはや自己義認はありえません。パウロはこの「信仰による義」を見出したのです。

すなわち、十字架の死だけで義と繋がっているのではありません。わたくしたちの生活の中で考えますと、自分の十字架(苦しむ亊)が義だとすると、それは自己義認と変わりありません。へブル人への手紙の著者は、イエスのただ一度の犠牲で、人々を罪のくびきから解き放ち、自由な身として下さったと述べています。なぜ、雄山羊と若い雄牛に象徴されるものでは全うされず、イエスにしかそれが出来なかったのでしょうか。その答えはガラテヤ人への手紙2章19節に、「わたしは律法に対しては律法によって死んだ」と記された箇所にあります。これは、主イエスが十字架の死によって、私たちの代わりに律法による裁きを受けてくださった、この出来事により、もはや律法の要求は成就したとするものです。もはや、律法は必要としないと証しています。

私共の歩みは弱さの繰り返しですが、今日イエスを信じるなら、私達に代わってイエスが義とされているのですから、イエスの信に倣う事でわたくしたちも義とされるのです。自分自身に義はないのですが、イエス・キリストに義が与えられているのですから。では、信仰義認では、隣人との関係の中で犯す罪を容認するのでしょうか。聖書はそうは言っていません(ガラテヤ2章17節)。生活の中で、パウロは律法に代えて霊に信頼し続けること(ガラテヤ3章3節)、そして霊の実である隣人への愛も律法を成就するものだと教えてくださっています(ガラテヤ5章14節、22節)。すなわち、愛を基準として、古い掟によれば不完全な者が、今やお互いを担い合いつつ生活し始めるのだと言います(ガラテヤ6章2節)。イエスの義を信じ共に預かり、霊によって愛の実を結びましょう。

「罪(神との断絶)」の赦しは、古い律法(いけにえ)によっては取除けず、永遠に有効なキリストの一回だけの犠牲でのみ有効なのです。キリストは、この死の苦しみによって従順を学び、人々の救いの源となったのです。このいけにえの廃止と新しい契約(新約聖書の由来)は、エレミヤ書で予言されていたものです。

『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。(エレミヤ31章31節〜34節)』

へブル人への手紙の最後で、「キリスト者の共同体は宿営の外に出よ(13章1節〜19節参照)」と勧告しています。イエスは聖所の中ではなく、宿営の門の外で苦難に遭われたのです。わたくしたちも、イエスが受けられた辱めを担い、宿営(教会)の外に出て(へブル13章12節)、イエスによってもたらされたこの解放と自由の「福音」を述べ伝える事で、イエスの御許に赴こうではありませんか。神に喜ばれる愛を述べ、忍耐強く信仰を持ち続け、兄弟を愛し、旅人をもてなし、家庭生活を大切にし、金銭に執着しないように生活し、イエスの信仰を見習い、教えに決して迷わされないように、とへブル人への手紙は諭します。私たちも、主イエスを目指して、忍耐強く、まことの信仰の道を走り続け、パウロの言う、朽ちない冠を授かろうではありませんか(1コリント9章25節)!

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