「心について」(ガラテヤ5章13節〜16節) ( 5.11/2014 )
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(16節)

ガラテヤ人への手紙の構造は、1章「人間に依らない福音」、2章「福音の真理」、3章「律法よりも優れたもの」、4章「相続人」、5章「キリストにある自由」1節〜12節(しっかりと立つ)13節〜26節(互いに仕える、13節〜15節愛によって、16節〜26節御霊に導かれて‐16節〜18節御霊の力、19節〜23節御霊の実、24節〜26節御霊の命)、6章「クリスチャンの生き様」。

新約聖書に描かれている世界にはパリサイ人と呼ばれる律法の教師とサドカイ人と呼ばれる祭司が登場しています。この両者は互いにもたれ合っているような関係にあります。すなわち、パリサイ人は律法を通して人々に歩むべき道を教え、サドカイ人たちはそれを全うできない人々の為に神に執り成しの儀式を行うというものです。どうしてこのようなシステムが必要だったのでしょうか。また、現代においても、神についての教えは、わたくしたちの心の必要を満たしてくれるのでしょうか。

イスラエルの歴史を振り返りますと紀元前722年、と紀元前586年にアッシリアとバビロンにより北イスラエルと南ユダは滅ぼされました。その理由として神との約束を全うできなかったために神も助けの手を差し伸べることができなかったのだと理解されました。神には間違えは無いのだという思想です。現代においても何か問題が起こるときに神の助けが現れないのはわたくしたちに何かしらの不備があるからであるという理由付けがなされているところがあるのではないかと思います。キリスト教はこのような背景の中で生れたのですが、「神の前に正しく立ちえない人間の為に、ただひとり、神のひとり子であるイエスを通して永遠の贖いが全うされた」という信仰に立っています(へブル9章12節)。
どうしてそこまで神の存在に拘るのか、という疑問がわくのではないかと思います。それは、わたくしたちの心には、神によって満たされる特別な場所があるからではないかと思います。わたくしたちは、仕事や家族や趣味や理想などとは違う、神という存在との平和な関係によって心の中にもたらされる充足感を必要としているのではないでしょうか。

さて、神の存在抜きで心の中を満たす試みは日常生活においてわたくしたちは当たり前のように行っています。社会には規範があり、イスラエルにも律法があり、あるべき姿をわたくしたちに教えてくれています。しかしその規範が間違っている場合や十分でない場合、わたくしたちはそれを全うするために苦しみ、自虐行為さえも起こしうるほどに重いものであるため、この規範の選び方、ないし受け止め方には厳しい注意が必要です。

主イエスはパリサイ人やサドカイ人と同様に規範として神を愛し隣人を愛することを教えました。しかし、主イエスとパリサイ人やサドカイ人のとの違いは、イエスに接する人々が律法による隷属状態から立ち上がっていった点です。それは、主イエスが証出来た心の空間の充足が、神の揺るぐことのない愛(「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ルカ19章5節、律法を行えない者への愛)に根差していたからです。

自己実現の機会でなく、隣人を愛する機会が与えられた時は、御霊から勇気を頂きましょう。掟によって隷属化されてではなく、(隣人のために隣人を自分のように愛そう)と促す神の霊に導かれて生活しましょう。なぜなら、神の愛が、律法の奴隷であったわたくしたちを肉の力(ガラテヤ5章19節〜21節、自分を愛する心)から解放したからです(ガラテヤ4章5節、5章1節)。条件付けずに愛してくださった神の愛が、これからも、わたくしたちの心を満たしてくれるのです。

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