「キリストの兄弟姉妹」(フィリピ1章14節) ( 5.18/2014 )
「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕えられているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」

キリスト教会内においてしばしば信徒同士が「〜兄弟、〜姉妹」とお互いを呼び合っている場面に遭遇することがあります。このことを本日は取り上げてみたいと思います。そしてこの呼称は単に家族的な交わりを意味しているだけでなく、繋がっている対象がキリストであり、キリストの兄弟姉妹とされている点が大切です。

1.フィリピ信徒への手紙が書かれた背景

フィリピ信徒への手紙とは、第二回伝道旅行中(使徒言行録16章)にリディアと彼女の家族、そして占いの霊につかれている女奴隷が救われ、投獄を通して看守とその家族が救われてできたのがフィリピの教会でした。そして、恐らく第三回伝道旅行中にエペソで投獄されたとき(紀元54年〜55年)にフィリピの教会に宛てて書かれたと言われています。

2.フィリピ信徒への手紙の内容

まず、フィリピ信徒への手紙の構造は、1章1節〜2節「挨拶」、1章3節〜11節「信徒のための祈り」、1章12節〜2章18節「迫害に備えて」、2章19節〜30節「テモテとエパフロデトの派遣」、3章1節〜11節「ユダヤ主義への警告」、3章12節〜4章1節「天国の目標」、4章2節〜9節「救いの完成に向けての勧め」、4章10節〜23節「援助への感謝」。

ユダヤ主義に対してキリストと一つになることを通して対抗するようにという趣旨の手紙です。例えば、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」(3章18節)と。彼は割礼による現世的なご利益を否定し、キリストの死と復活に預かることを目指していると告白しています(3章10節〜11節)。しかし、特徴的なのは「キリストを伝えるとはどういうことなのか」という点について、救いは律法ではなくキリストの生の中にあるのだと言っています(1章15節〜18節、2章5節前後)。

3.「主に結ばれた兄弟たち」とは

フィリピの教会のひとつの特徴はリディアにしても獄吏にしても家族ぐるみで主イエスを信じる生活に入れられた点です。その秘訣は1章14節の「主に結ばれた兄弟たち」の中にあると思うのです。すなわち、それぞれの救いの責任者は主イエスであるということです。その反対にあるのは、家族の信仰の責任は自分にあると思い込むことです。「主に結ばれた」とは、各々が主イエスによって救われ、その罪を赦され、信仰と永遠の生命に召されたということであり、家族の気に入る信仰を持つことが救いではなく、各々の救いは主イエスがそれぞれに与えてくださるものであるということです。そして家族も、教会員お互いも、主イエスを介してわたくしたちは兄弟姉妹とされているということです。ボンヘッファーは「主イエスが兄弟姉妹のためになされたこと以上のもの、十字架と贖いの現実以上のもの(理想)が教会の交わりの中に残ることはないのだ」という趣旨のことを本に記しています(「共に生きる生活」新教出版社13頁)。

4.「主に結ばれた兄弟たち」との、これからの歩み

わたくしたちの家庭の中にも、この、「主に結ばれた兄弟たち」という信仰を受け入れることはできないでしょうか。もし、愛する家族一人ひとりが主イエスに贖われ、主イエスの兄弟姉妹とされているとするならば、私たちにとって都合のよい条件(律法のようなもの)は全て捨て去っても良いのではないでしょうか。多くの部分についてキリストにお任せしてもよいのではないでしょうか。キリストの兄弟姉妹が、わたくしたちの家族であり、教会員お互いなのです。


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