「信仰の支えは」(マタイ28章20節) ( 5.25/2014 ) |
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28章20節 本日はクリスチャンとして先に地上での生涯を終えられた先輩方を記念する礼拝です。恐らく、今日お集い下さっている御遺族の皆様にとっては、故人の信仰の力の源を知りたいという願いを持っておられるのではないかと思うのです。生涯神の存在を信じ信仰を全うされたその過程には皆様が知っておられるだけでも様々な困難があったのではないかと思うからです。 1.信仰のきっかけ 使徒パウロでさえ自分の人生を振り返った時に、(わたしでは無い)という信仰に立っていたことを告白しています。「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(1コリント15章8節〜10節)。イスラエルもバビロン捕囚から解放された時、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4章6節)という、自分の力でなく神の霊のみ、という信仰に立っていたことが伝えられています。自分の力を否定することは恥ずべきことではなく、聖書は神を大いなるお方として紹介していまして、コインの両面のように、律法の教師のつもりであった反逆者や、壊滅した神殿に対してご自身の御心を現されたと言っています。 2.信仰の本質 使徒パウロの信仰を参考にしますと、神の御心は復活された主イエスの言葉の中にそのヒントがあると思います。すなわち、それは、主イエスの十字架によって一切の罪を拭われ、罪の赦しを得たことをパウロは信じていたのです。「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」(使徒行伝26章18節)わたくしたちには良心があり、それはわたくしたちを生涯訴え続けるかもしれません。しかし、主イエスを信じる生涯は、自己評価によれば不完全であったとしても、罪を洗い流してくださる主イエス(使徒行伝22章16節)を信じて、再び光に向かって歩みはじめる生涯なのです。 3.信仰の保証 それは、自分の力ではなく復活された主イエスです。「彼は目に見えない」と言われるかもしれません。しかし、聖書が証言する永遠の命は主イエスがまず最初に受け取られたものです。それは、肉体を持ったものではなく霊のからだであり、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(ヨハネ20章19節)と、ありますように、変えられたからだでした(1コリント15章)。 わたくしたちは生活の困難により押しつぶされてしまうことがあったとしても、主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださっています。故人がわたくしたちに願って下さっていることは、立派な人格によって信仰を支えるのではなく、自分の力に頼らず、復活した主イエスと同じ体にされる日に希望をおいて生活することなのではないでしょうか。 今完全でないから、という理由で、信仰を諦める必要はないのです。力は神にあり、神がわたくしたちを立ち上がらせるのです(詩篇62篇11節口語訳)。やがて、御使いのように(1コリント15章20節、マタイ22章30節、マルコ12章25節)、一瞬で(1コリント15章51節)変えられるのです。朽ちるものが主イエスによって朽ちないものに変えられる日が来ます(1コリント15章42節)。今も主イエスが共にいてくださるので、おぼろげに感じておられるでしょう。「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマ1章4節)。栄光のからだに変えるお方(ピリピ3章21節)に依り頼みましょう。 |
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