「神の力、キリスト」(1コリント1章24節) ( 6.1/2014 )
「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

あるテレビドラマで社会福祉のために私財を投じて命を救っている実業家がでてきました。しかし、彼は自分の心の怒りを抑えることができず犯罪を犯してしまいました。良い志を持ち実行することができても自分の心を治められないという問題は、誰もが直面している問題ではないでしょうか。使徒パウロは、自分の力ではなく、神の力、知恵であるキリストを知ったと語っています。

1.人は自分の問題を負いきれないが
ボートは湖に浮かべることもできますが、海に浮かべることもできます。わたくしたちの人生も、自分の世界で解決を求める生き方から脱出して、神の力を信じる海のように大きな世界で問題を捉えることもできるのではないでしょうか。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(2コリント5章19節)と、聖書に記されています。

2.神の力が証しするもの
神の力を信じる世界において証しされているのは主イエスによる罪の赦しです。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと・・・」(1コリント15章3節)

3.神の力による回心
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」これはガラテヤ人への手紙6章14節、15節です。パウロは自分自身を死人のように考えていました。代わりに神が生きてくださるからです。マルコはイエスが生きている世界を福音書という形で書き残しました。わたくしたちも、自分ではなく、イエスが生きてくださる世界を神に求めることもできるのではないでしょうか。

4,燃料は?
自動車も燃料を間違えて入れますと動かなくなります。信仰生活も自分の力と知恵を燃料とすると、いつか動けなくなります。既に動けなくなっていることを感じることはないでしょうか。聖書を手がかりとし、祈りを通して聖霊の導きを補給しましょう。そして自由をキリストの為に用いてみませんか(1コリント11章1節、6章12節、9章23節)。背後には神の力があるのですから。

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