「聖別することにしていた」(ヨブ記1章1節〜5節) ( 7.6/2014 )
彼は「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。」(5節 新改訳)

キリスト教史にアウグスティヌスとペラギウスという二人の学者が登場します。前者は恩寵による救いを、後者は功績による救いを強調しました。その背景には聖なる神に対する真剣な取り組みがあります。聖なる神にどのように近づけばよいのでしょうか。

1.旧約聖書から

旧約聖書の登場人物の中で義人として有名なのはヨブです。彼の信仰は、「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1章5節、新改訳)とあります。ヨブは息子たちを聖別することにしていたのです。聖なる生活は関係ないなどと思わず、定められた儀式を通して息子たちの心に聖別を教えました。自分の意志で聖別を獲得できると信じて歩んだのではないでしょうか。

2.新約聖書から

ヨハネ15章には9回「つながって」という言葉が出てきますが、自分の内には救いは無いのだけれども、主イエスにつながっていることを通して、恵みによって救われるということが強調されています。アウグスティヌスは、自分の力で悪の力から抜け出せるなどと考えることは不可能であり、救われるのはただ恵みによると主張しました。確かにこの認識は間違っていないと思いますが、ヨブのように、礼拝を通して意識付けすることは可能ではないでしょうか。聖書の言葉を通して聖なるお方への思慕を保ち続けなければならないと感じます。

3.現代から黙示録まで

現在、キリスト教会で動物を犠牲として祭壇にささげるようなことは行っていません。ただ主イエスの十字架を記念する聖餐式が行われています。アウグスティヌスの言うように、人間には救いの道を開くことができないので、神の側からイエス・キリストが遣わされ、イエス・キリストの十字架と死と復活、そして聖霊によりクリスチャンの心の中に神の支配が始まっています。しかし、本当に主イエスとつながっているならば、彼と同じ性質を持つはずです。ヨハネの黙示録には「支配する」という言葉が9回、良い意味でも悪い意味でも使われています。その中で20章6節には「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」(口語訳)と預言されています。主イエスを信じ聖別されるということは、悪から分かたれることを意味しています。聖なる神の側に立たされているのです。神の方法は分かりませんが御言葉を素直に信じる時に、気づかないうちに、神の側にいる平安を感じるようにされるのです。

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