「もたぐべし」(イザヤ書46章1節〜4節) ( 7.13/2014 )
「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(4節、新改訳)

「汝らの年老ゆるまで我はかはらず白髪となるまで我汝らを負はん 我つくりたれば擡ぐべしわれまた負ひかつ救はん」(4節、文語訳)

「もたぐべし」というのは、文語訳聖書の訳です。「アッ」という間に失敗し、聖なるお方から離れてしまうわたくしたちかもしれませんが、聖書に記されている約束は「もたぐべし」なのです。

1.神のおられる場所

「主が高くあげられたみくらに座し」(イザヤ書6章1節、口語訳)とイザヤは告白しております。自分では到底、登れないような、神がおられる場所は高い場所だというのです。わたくしたちが設定したわけではないのですが、神は元々そこにおられるのです。

2.わたくしたちの場所

ジャン・カルヴァンという神学者は「信仰とは、神のわれわれに対するいつくしみの意志についての、堅固で確実な認識である。そして、これはキリストにおける価なしの約束の真理に基礎を置き、聖霊によって、われわれの精神に啓示され、われわれの心情に証印されるものである」。と言っています。「神のわれわれに対するいつくしみの意志」って、良い言葉だと思いませんか。もし、納得できるならば聖霊は既にその方の心に働いておられるのです。神のいつくしみの意志を信じましょう。

3.今は救いの時、すなわち、もたげらる時

マタイ13章24節〜30節には毒麦のたとえ話があります。「収穫の時期になったら」と30節に記されています。すなわち、収穫の時と言われている主イエスの再臨は何時か分かりませんが、少なくとも、主イエスが再臨されていない今は、神に立ち返ることが許されている時間なのです。そして聖なるみくらにもたげらるべき時なのです。

世の中の「もたげらる」の場合は、「憎きもの、『やりどなど、云云、すこしもたぐるやうにて明くるは、鳴りやはする』」(枕草子、二、17段)のように、目的が達せられない場合(残念だ)という感情だけが残るものです。
しかし神の場合は、わたくしたちがご期待に添えないために、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」(イザヤ46章3節b、新改訳)と、胎内に居る時から責任を負ってくださり、更に、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された…」(ヨハネの福音書の3章16節、17節、新共同訳)と、愛してくださったのです。そして、この約束はこれからも有効なのです。ゆえに、主イエスがもう一度来られるその日まで、神の栄光を拝しつつ、聖なる神に持ち運ばれましょう。そしてその日が、泪が拭われ神の栄光に与れる、わたくしたちの希望なのです。

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