「恩寵のみ」(マルコ10章13節〜16節) ( 7.20/2014 ) |
「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(16節、新共同訳) マルコによる福音書には弟子たちに追い払われようとする子どもたちと(10章13節〜16節)、権力争いをしている弟子たちの姿(9章33節〜37節)が記されています。主イエスは弟子たちの思いを退け、子どもたちを御許に引き寄せようとされました。恐らく、幼子も幼子なりの失敗と苦悩を抱えていたと思います。子どもたちが持っていたものとは、明確な罪意識であり、その罪から救ってくださるお方への信仰でした。 1.恩寵のみ 幼子は、神に近づくために何のささげものも持っていなかったと思います。しかし、主イエスはそのような幼子たちがご自分に近づいてくることを喜んでくださいました。そして、それを妨げてはならないとおっしゃいました。誇るものが何も無い人を神は救ってくださいます。 2.恩寵とは神が満たしてくださった前提条件のこと 弟子たちと幼子の姿を比較していることから(14節)、立派な生活が信仰の前提条件ではなかったのではないでしょうか。マルティン・ルターは神ご自身が信仰の前提条件を満たしてくださったのだと説明しています。(それは、人には決してできないことでした。)その前提条件とは、 第一に、神が単なる歴史の出来事としてではなく、わたくしたちの救いの為に主イエスを人として地上に送ってくださり、贖いのわざを成し遂げてくださったこと、 第二に、単に信じるだけでなく、神の約束を信じ信じたところに従って自分を委ねて目的地に向け旅ができるように約束を与えてくださったことであり、 第三は、単なる教理についての同意でなくキリストと一緒に歩むことであり、全人格を持って行う神への応答であり、信者の中に現実で人格的なキリストの現臨をもたらすと語っています。神自らが満たした前提条件とは主イエスのことでした。 3.わたくしたちの罪に触れた神のわざ 人が義とされるには、自分の良い点を必死に探すようなこと、すなわち、つかみどころのない幸せの模索ではなく、主イエスに信頼することが必要です。罪以外に思い当たらないかもしれませんが、神が解決してくださったのです。 |
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