「神と共に歩むとは」(ルカ18章9節〜14節) ( 7.27/2014 )
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節、新共同訳)

先週は「恩寵のみ」という題で、救いの前提条件は、神が主イエスを通して既に満たしてくださっているとお話しいたしました。そして、弟子たちと幼子たちを比較して説明いたしました。本日は神が満たしてくださった前提条件の3つ目としてお伝えしました、単に教理についての同意ではなく神に結ばれて生活すること、というところについて、もう少し考えてみたいと思います。神と共に歩むとは、

1.誇りや祝福ではない

ここに登場しておりますパリサイ人は自らの正しい生活を誇っていました。そして、他の人を見下していたとあります。主イエスに褒められたのは、このパリサイ人ではなく、誇るものを何も持たない方でした。主イエスの弟子たちでさえ祝福の条件を自分の力で整えられると勘違いしていました。しかし、本物は神の義を持つ人です。

2.神に聞くこと

良い人生に変えていくためには、何かきっかけが必要ではないでしょうか。毎週日曜日に行われている礼拝に出席して、神の言葉を聞いてみませんか。

3.神の義のみ

プロテスタント教会が生まれたとき、神の義がどこにあるのかが問題になりました。マルティン・ルターは、神の義は人間の外側、すなわち、神にのみ神の義があると主張しました(何か、ほっとします)。ゆえに、私共が義とされる場合、それは、共に歩んで下さっている方の持っておられる義を指しています。ゆえに、神を忘れた神の義はありません。
聖書には「救い」という言葉が224回も登場していますが、「神様、」、と祈れるだけで、そこに救いがあることを証ししているのではないでしょうか。
苦しみが神の義を否定しているのではありません。神の義を忘れて、自分の内に義を見出そうとすることが間違っていると主イエスは教えてくださっています。つらいことがあっても、大丈夫です。祈りの言葉は「罪人のわたしをあわれんでください」。で良いのです。義を所有しておられるお方は、もとから、わたくしたちではなく主イエス様です。主イエスの御前に、へりくだって、もう一度、彼と一緒に歩み始めるなら、誇るものはなくても神の義を見るのです。取税人は認められ、幼子は抱き上げられました。

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