「はい。まいります。」(創世記24章42節〜58節) ( 8.31/2014 ) |
「はい。まいります。」(創世記24章58節、新改訳) 「神の賜物と召しとは、変えられることがない。」(ローマ11章29節) 本日は、信仰生活の喜びについて考えてみたいと思います。 聖書には、教会をキリストの花嫁と表現している(ヨハネ3章29節、黙示録19章7節他)ところが沢山見受けられますが、実際の家庭生活も、まして、信仰生活になりますと、欠点のない者を求めておられるという強迫観念にも似た思いに襲われることはないでしょうか。 神はアブラハムを選ばれましたが(創世記12章2節)、ローマ人への手紙11章には心を頑なにされたイスラエルへの神のご計画が記されています。すなわち、信仰生活についてすべての責任を自分で負い込むのではなく、神をもっと温かいお方として信じ、重荷も共に彼に委ねてよいのではないでしょうか。 信仰生活で抱く不安も、「はい。まいります。」というリベカの信仰に倣うときに光が見えてくるのではないでしょうか。「はい。まいります。」という信仰を持つ理由は、 1.神の賜物と召しとは変えられることがない(ローマ11章29節、口語訳)から わたくし達に声がかけられた時点で、リベカ同様に既に条件を満たしていると判断されたのは神です。 2.不従順さえも益に変えていただけるから 不従順の時に一番つらいのは、自分自身です。しかし、イエスラエルの不従順はローマ11章に因りますと、益に変えられています。 3.神が待っていてくれるから リベカの場合にはイサクでしたが(創世記24章63節)、わたくし達が神に従うとき、神に促される先には、待っていて下さる神がおられ、そこには、不安があるのではなく、逆境の中でも神の愛を信じ喜ぶわたくしたちがいるのではないでしょうか。 |
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