「小さな者に思えても」(マタイ25章40節) ( 10.12/2014 )
「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(40節)

路上で命を落としていく方々を励まし続けたマザー・テレサは、困難の中に主イエスがいて下さることを伝えました。主イエスを迎えると暗黒に光が差し込むのです。

1.罪のゆるし

「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。」(1ヨハネ3章16節)今も抱え続けている問題の解決は主イエスの十字架の上にあります。神の前に立つことが楽しみである方は少ないでしょう。しかし、病院に行くことが好きな方はまれにおられるのではないでしょうか。それは、その先に希望があるからです。神の御前に立つときに罪を示されるかもしれません。しかし、その時に現されるのは神の憐れみであり、主イエスの十字架の代価による完全なゆるしです。

2.キリストの命

わたくしたちは主イエスの十字架の故に神により審判済みにされており、主イエスを信じたときからキリストの復活の命を受けています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしの内に生きておられるのである。」(ガラテヤ2章19節〜20節)とあるとおりです。そして、彼の命は、世になじむには馴染みにくいそんな命なのです。ですから、何度でも悔い改めを迫られるのです。ですから、自らの罪深さを責める以上に主イエスの命は失われないことを確認することが大切です。彼を心にお迎えして悔い改めずに過ごせる人は存在しないのです。

3.小さな者に思えても

キリストの命で生きるとは、どういうことでしょうか。登山の場合、一人で登るのと、誰かと一緒に登るのとでは全く歩みが違ってきます。すなわち信仰生活の場合も相手を思いながら歩むのです。そして、その相手とは主イエスです。彼はわたくしたちの小さな問題に心を裂き、更に、今もすべての人が救われるようにと心を裂いておられるのです。問題と思えていた弱さは、彼の命を迎えるところであり、自分がどんなに小さな存在に感じられる時にも、主イエスはご自分の存在を重ねて(わたしの問題だ)、と平安を持っていて下さるのです。責めているのは彼ではなくわたくしたち自身なのかもしれません。現実を担っているのはわたくしたちだけでなく、主イエスも傍にいてくださるのではないでし ょうか。

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