「大切にしたいこと」(ルカ23章34節) ( 11.9/2014 )
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」(34節)

本日は、大切にしたい二つの目標を掲げたいと思います。
その前に、教会にまだ足を運んだことのない方々に、この教会がお伝えしたいメッセージを三つご紹介させて頂きたいと思います。キリストがあなたのところに来てくださったのは、
第一に、罪を赦すため(「罪」については11月2日の動画をご覧ください)。
第二に、そばにいて、そして平安をあたえるため。
第三に、あなたのためにご自分の命(聖霊)を注ぐためです。
この三つのメッセージを、ご家族やご友人に、職場や地域の皆様にお伝えしましょう。主イエスはご自分の命を注いでわたくしたちに彼のお命を与えてくださったのですが、わたくしたちの教会が大切にしたい二つの目標とは、

1.主イエスのわざに感謝したい

わたくしたちは、自分の力で神を信じるようにされたのではなく、それは神の恵みなのだと聖書は繰り返し証言しています。
「しかしそれは、わたしと共にあった神の恵みである。」(1コリント15章10節)、
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰に依るのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ2章8節)、
「それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基づき、また、永遠の昔にキリスト・イエスによってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。」(2テモテ1章9節〜10節)。
律法を行っているから救われているのではなく、仮に律法を行うことが出来たとしても、それは、わたくしたちではなく、わたくしたちの内に生きていて下さる主イエスのわざなのです。(このことを聖書では、聖霊という表現で語っています。聖霊についてはローマ5章5節参照)ゆえに、誰も、神の御前において、そして隣人に対しても誇ることはできないのです。ただ、よみがえられた主イエスがわたくしたちの心の中で行ってくださった彼のわざをほめたたえ、感謝しましょう(1ペテロ3章15節)。

2.十字架によって救われ、十字架に生き、とりなしたい

どうにもならない罪の問題は、主イエスが十字架によって贖いを成し遂げ赦してくださいました。しかし、罪を赦されて、主イエスの命で生きる生活に入れられた後も、主イエスの十字架の贖いをわたくしたちは必要としています。同様に、主イエスの命で生き始める時に、赦すことを迫られる場面にも導かれます。とりなすとは、罪を罪と感じることの出来ない罪人の罪を自分のものとして感じる姿勢です。すなわち、罪にさえ気づいていない方の為に、その人の不幸を、自らの罪の結果として、神と、罪を犯している方にも頭を垂れ詫びるのです。ただ、これはわたくしたちの決断の結果ではなく、主イエスが心の中に生きる時に与えられる賜物です。

わたくしたちも、主イエスの、この十字架から流れ出ている愛で覆われ、保たれているのです。隣人のことも同じ愛で主イエスは愛しておられるのです。

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